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──── 私がこの男と出会ったのは、七月に差し掛かった蒸し暑いとある夜のことだった。
誰もいないはずの、見知った私の家で、私の知らない男はただ静かにそこに在った。
寝室のドアを背にして、電気の消された闇に溶け込むように私を見据える鋭い目。その目が私を写すと小さく瞳を見開かせたように見えた。目立つ金色の髪に前が大っぴらに肌蹴られたシャツから見える刺青はどう見ても堅気には見えない。年齢は三十代後半だろうか。
私の住むここはたしかに田舎と呼べるが集落と呼ぶほどじゃない。駅には駅員が配置されているし、バスは一時間に一本出る。殺人事件も、事故も起きる人口であるために当然ながらこの男と面識はない。元より人の顔と名を覚えることは得意とは言えなかったものの、少なくとも仕事関係で知りあったことはないだろう。
「……ぁ、」
知り合いでもない男が見知らぬ他人の家に入り込んでいる。そんな恐怖は言葉になど表せない。か細い悲鳴が喉から溢れ出た。
強盗か、はたまた陵辱目的か。どちらにせよ笑ってお見送りなんて状況にならないことはわかりきっていて、脳内に警鐘がけたたましく鳴り響く。
時刻はすでに零時を回っている。明日も平日なだけあって周りは既に眠りに落ちているころだ。起きている人もいるだろうけれど、家と家の間隔が広く、またこの家は大通りからずいぶん離れていて、たとえこの場で大声を出しても誰にも聞こえない。
そう冷静に分析しながらもうるさく高鳴る心臓の鼓動を感じながら男から目線をずらして、ようやくここがリビングであったことを思い出した。キッチンと併用されている造りのため、ほんの一メートルもしないところに包丁がある。包丁が難しければ大きめのハサミだってあるし、なんなら菜箸だって武器になり得る。どれを持つべきかと思案し、片足に体重をかけると無言だった空間を切り裂くようにミシリと床が軋んだ。その音にハッとした男の眉根が寄せられる。
「女……?」
そうまじまじと私を見つめながら言った言葉は、私の聞き間違いじゃなければ私の性別を信じられないように確認するものである。察するに私を女だと認識しておいて家に侵入したわけではないらしい。
陵辱が目的でなかったとするなら強盗目的……?
そう考えると、なるほどたしかに、なんて思わず納得してしまった。なんせ家の大きさだけで言えばそれなり。一人で暮らすにはとても寂しすぎる大きさで、かつ周りは高い塀に囲まれているから一度侵入してしまえば外からは見え辛く、防犯に犬を飼っているわけでもない。
余程金に困った若者であれば手を出してしまうような雰囲気があったのだろう。……まあ、目の前の男は私より幾分も年上に見えるけれど。
そこまで思い至って、ただの強盗目的で顔を隠さないその思考におもわず隠微に眉を顰めた。
好んで警察にご厄介になる犯罪者がいるだろうか。ホームレスの類は住むところに困って刑務所暮らしのために軽犯罪を犯す人もいるとどこかで聞いたことはあったけれど、強盗は明らかな軽犯罪とはかけ離れているし。
もしくは、殺人と強盗を兼ねているという可能性もある。顔を隠さない理由はこの辺りにあるのだろう。殺してしまえば隠す必要もなくなるのだから。
そうであれば自分はきっと簡単に殺されるんだろうなぁなんて半ば諦観して、数週間前に見た洋画が脳裏をよぎる。身近な恐怖は誰に降り掛かってもおかしくないのだ──── そんなフレーズが用いられた強盗事件の再現洋画だった。結局父親と母親は奮闘むなしく虫けらのように殺されて、二人の愛娘ひとりだけが生き残る、そんな内容。
たしかに誰に降り掛かってもおかしくなかった。けれど、泣きそうになる心を叱咤する。だって、
──── おとなしく殺されるもんですか!
きっと顔を見たからには殺される。けれども、それでも。おとなしく死んでなんてやらない。どうせ殺されるなら抵抗しきってから、爪痕をなにか残してから死にたいじゃないか。
そんな悲しいと取れる決意とともに、手が白ばむほどにぎゅっと握って、食器かごに放置してある包丁に目線を向けた時、男が再び口を開いた。どうしてか男の声色が少しやわらいで私から距離を取るように一歩だけ後ろに下がる。
「落ち着け。おれァ危害を加えるつもりなんかねェよい」
「……は」
なんともまあ、男の口から出た言葉は到底信じられるものじゃない。このご時世に他人の家に無断で入り込んでおいて危害を加えるつもりはないだなんて。冗談にしたってまったく面白くない。
今度は隠さずに皺を寄せる。移動のために後ろに踏み出した足の骨が小さく軋んだ。緊張で変に強ばって、口がカラカラに乾くままなんとか声を絞り出す。
「……誰なの。私を殺すの」
「女に手あげる趣味はねェよい」
「ならなんで人の家に入り込んでるの。お金が目的? だったらあげるから出ていってよ」
「金でもねェ。本当だ。気付いたらここにいた」
そう言って男は困ったように軽く溜息をついた。この状況で溜息をつきたいのはこちらのはずである。
一歩踏み出せば男は一歩下がり、眉尻を下げたまま、両手を軽く頬の側まで上げている。まるで危害を加える意はないと言うように。もちろん信用なんてできるわけない。睨むように一挙手一投足を見張る。
ピリついた重たい空気が広がる中、不自然にならない程度に移動を重ねたおかげで何とかキッチンに辿り着き、包丁を背に隠し持った。
「……とにかく、落ち着いてくれ。危害は加えねェ。不安なら手錠でもなんでもかけりゃいい。聞きてェことがあるだけだよい」
「は、」
「ここは船……じゃねェよな?」
「……船……? ここは、私の家よ」
……密航者? にしたって海からはだいぶ離れているはずだけど。ここは海ではなく山に囲まれた田舎町なのだから。
小さく男の口が「家、」と音にならない声で私の言葉を象った。