32
残りの有給をどう過ごしたかは覚えていない。でもたぶん、ひたすら呆けていたのだと思う。けれどマルコさんのことで仕事が疎かになることはなかった。
周りになにかあったのかと感じ取られるようなことは一切なく、ミスも一切なく、いつも通りの笑顔と話術で契約を掴んでいつも通り後輩のミスに走り回って、いつも通りの休日を過ごす。
ほんの少し痩せたのだって、生活がいつも通りに戻ったことを示していた。マルコさんが帰れば荒れるだろうと予想されていた食生活は思っていたほど荒れることはなかったし、不健康に痩せこけるということもなく、食事が喉を通らない、なんてこともない。可愛げがないほどいつも通りに月日はすぎていた。
けれど、私の歯ブラシの横に立てかけられた青色の歯ブラシだとか、家では飲まないコーヒーパックだとか、靴箱にしまわれている男物の靴だとか、一切読めない専門書だとか、とにかく家中にあるマルコさんがいた痕跡が完全ないつも通りには戻らせてはくれない。それでも捨てる事ができずに放置したまま数ヶ月が経った頃。
そこまで経てばそれなりに心境も落ち着いて、いちいちマルコさんの物に心が揺れ動くこともなくなった。同僚たちと飲みに行くことや友人たちとの電話で心から笑うこともでき始めて、めっきり更新が途絶えていたSNSに楽しかったことやゲームのことなどを呟けるようにもなって、少しずつ、日常が戻ってきたように思う。
私が数ヶ月間やけに“構って”だった理由を察していただろう親友の彼女がなにも言わずに忙しい子育ての合間をぬって、ただ話し相手になってくれたことがいちばん大きい。眠れないと零す私に夜中まで付き合ってくれたことは両手じゃ足りなかった。さすがにこれじゃ駄目だなと、大人らしく酒の力を借りるようになってからは彼女に頼ることもなくなったが。
そんな今夜も寝酒を求めて同僚たちとの飲み会帰り。ふらふらな足取りで家路に着いた私はベッドに直行する──── ことはなく、靴を雑に放り投げて向かった先はずっと入れていなかった今は空き室の、マルコさんに宛がっていたあの部屋だった。
「うわ……」
たった数ヶ月閉め切っていただけだというのに、ドアを開けると少しの黴臭さが臭ってくる。わずかに眉を顰めながらまずは窓をあけて換気を施した。あいにくの夜なだけあって爽やかな風は吹いてこないが、代わりに涼しい夜風が入ってくる。マルコさんと出会った時の、あの熱気を含んだ夏風じゃなく、すっかり秋の装いとなった心地の良い風が相変わらず長いままの私の髪を揺らしていく。
「……秋だなあ」
どこか遠くで鳴く鈴虫を音楽に改めて部屋を見渡した。壁際に寄せられたベッドから垂れでたシーツはよれていて、完全に物置小屋、もしくは完全な空き室と見紛うほどに殺風景な部屋である。
“何もない部屋”を体現したかのような、必要最低限な家具しか置かれていない部屋。唯一ハンガーにかけられた衣服だけがかつて住人がいたことを知らせていた。
その衣服を手に取って、畳みながらクローゼットを開く。ふわりと舞う埃に鼻先を手で覆いながら目に付いた服を取った。もうどこで買ったかも覚えていない、VネックのシンプルなデザインのTシャツ。数回しか着られることがなかったおかげで汚れもなく、明日にでも古着屋に持っていけばそれなりの値段で売れるだろう。
ひとまず服から処分していこうと、一枚一枚に思いを馳せながら取っては畳みを繰り返して、クローゼットに併設されてあるタンスの中の服も取り出して辿り着いた一番下の段。その奥底に仕舞われたその服はほかの洋服よりもどこか違っていた。紫色の上着も、パンクロックじみたベルトも、色鮮やかな水色の腰布も、七分丈のズボンも、私がマルコさんに買ったものじゃない。
大事に大事に畳まれたこれらは。
「……マルコさん……、元気にしてるかなあ……」
顔を埋めても香ってくるのは家でいつも使っている柔軟剤の匂い。彼の匂いなんて微塵もしないことにほんの少しだけ涙が滲んで、慌てて顔を上げた。
さすがに人様の物を勝手に汚すわけにも売るわけにはいかない。これは私の部屋に飾っておくことにしよう。
皺にならない程度にぎゅっと抱きしめて立ち上がる。その際視界に入った積まれた洋服たちは明日にでも纏めるとして、今日はもうこのまま寝てしまおうと自分を甘やかす。アルコールが回りながらも忘れずに窓を閉めて、もう一度見渡した部屋は完全な空き室だった。電気を消してバタリと閉めれば廊下の静寂さにまた意味もなく涙が出そうになる。明日で最後だ。それでもう、きっとこの部屋には足を踏み入れない。いっそ引っ越すのもありかもなぁ、なんて現実味のないことを考えながら、腕に抱える質の良さがわかる上着を撫でて、自分の部屋のハンガーにかけた。
明日、古着屋に行ったその足で一度クリーニングに出してもいいかもしれない。数ヶ月も放ったらかしたんじゃ良い服が台無しだ。埃と微かに寄っている皺を払って、得意げに鼻を鳴らすとアルコールが残るままベッドに横になる。ぐらぐら揺れる頭に眠気が良い感じになるけれど、瞼にちらつくマルコさんの上着がどうにも気になって、仕方なくもう一度起き上がった。
「……どうせ明日、クリーニングに出すし」
上着だけをハンガーから取ってタオルケットの上に掛ける。大きな袖は私の顔半分をすっぽりと隠してしまって、少し重みが増したことでまるで抱きしめられているような感覚すら覚えてしまう。 我ながら気持ち悪い。そう分かりつつも満足してしまって、再び目を瞑った。もう気になるものはない。今度は眠れそうだと笑みを浮かべる。──── うん。良い夢が見られそうだ。
なんとなくそんな予感を持ちながら、意識が徐々に闇に飲まれていく寸前。
耳元でちゃぷん、と、水の揺蕩う音が聞こえた気がした。
──── なんか聞こえねェか?
──── あン? ……そうかァ?
──── ……風を切るような……なんだァ? どっから…………あァ!? おい、上見ろ上ェ!