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 なにもやることがなくても、どこか遠くに出かけなくても。時間はとうに流れていく。一緒に暮らし始めて浅くはない日数が経てば、部屋は私が勝手に買ってくるマルコさんに宛てたもので溢れていた。とりわけ歴史書や医学書といった専門書が群を抜いて多く、増設したばかりの本棚は既に溢れ返りそうなほどだった。ずらりと並ぶ背表紙は全て英語で書かれていて、これだけ見ればなんだか自分の頭が良くなった錯覚すら覚えるほど。まあ、あいにくと私は全く読めないのだけれど。
 
 家と本屋を行ったり来たり。家とコンビニを行ったり来たり。あまり遠くには出かけずとも、仕事終わりのちょっと時間や、それこそ土日にはなにかしらマルコさんを伴って家を出ては買い物をして、美味しいものを食べて、あるいは日がな一日二日ぐうたらしたり。気がつけば有給は一週間を大幅に過ぎていて、もうあと数日もすれば仕事が始まるというところまで来ていた。


 そうして、世間はようやく梅雨に入った。







 朝から分厚い鈍色の雨雲が太陽を隠して、生温い風と共に湿気を運んできたと思えば、外を見た途端に降り出す大粒の雨に梅雨入りしたことを思い出して重苦しい溜息を吐き出した。
 中干しの洗濯物から臭ってくる生臭さと、窓を閉めているはずなのにどこからか漂ってくる雨の日独特の、鉄臭さと土埃のようなあの臭いが鼻をついてしかたない。ついでテレビから聞こえてくる殺人事件の嫌なニュースを聞いてしまっては爽やかで優雅な朝には程遠い。アナウンサーが淡々とここ最近あったらしい嫌な出来事ばかりをしゃべり終われば、鬱々としたニュースを吹きとばすポップな曲と共に運勢を占い始める。

「う……」

 思わず唸ってしまったのは最下位の欄に映る星座が自分のものだったからである。そういうものを信じているわけではないけれど、最下位と聞けば良い気分にはならない。どうにも嫌な、とまでは言わずとも、良いことは起こらなさそうだと、そんな予感がひしめいていく。

 ──── ばかばかしい。

 久しぶりに占いを見て、それがたまたま最下位だっただけで、嫌なことなんて起こるわけない。安直な自分の考えを一蹴したところで湯沸かし器がカチリ、と音を立てて振動を止めた。
 注ぎ口から湯気立つお湯をティーポットに入れて、あらかじめ用意していたカップに注げばピーチティのいい香りが憂鬱な気分を霧散させていく。

 その気分のまま、足取り軽くマルコさんの朝ごはんを作り終えて私の分のヨーグルトを冷蔵庫から出したところで、背後から届く足音に顔を上げずに朝の挨拶を言い放つ。

「おはよう、いまご飯作ったところだから座って待ってて」
「なまえ」

 さきほどのアナウンサーのように淡々と呼ばれる私の名前に、用件を聞くよりもテーブルに朝ごはんを並べることを優先した私は小さな子どもを相手にするかのような待ったを口にしながら、フライパンで熱された料理をお皿に形よくのせていく。

「なまえ」

 また呼ばれる。
 なあに、なんて間の抜けた返事をするけれど、今なにかしら言われても右へ左へ抜けていくことはわかりきった声だった。

「なまえ」

 懲りずにまた呼ばれる。

「もう、少し待ってったら。食べる時に聞くわ、座って待ってて」
「なまえ!」

 ──── 切羽詰まったような声だったように思う。
 さすがに不審に思って顔を上げると、当然目に入ってくるのはグレーのシャツに黒のスウェットパンツ姿のマルコさんで、その格好はいつもの寝間着だった。格好だけならいつものマルコさんと相違なかったが、料理油のついた木べらを床に落としてしまったのは、単純に手が滑ったからではない。

 いつもと同じ格好のマルコさんはけれど、いつもとは違って透けていた。

 喉が引き攣って、短く吸った空気は少量の唾液とともに器官に入っていく。噎せながら駆け寄って伸ばした手がスカリと空を切った。何度も何度も往復する手はそのたびにマルコさんの体をぐにゃりと歪ませる。

「なん……っ、なに……!」
「落ち着けよい」

 私に向けて伸ばされた手は多分、泣きそうになっている私を慰めるために撫でるかなにかしようとしたのだと思う。けれど透ける手を見てか少し眉根を寄せて自分の首にへと回した。触れることもできなければ、触られることもできないらしい。マルコさんは悲しみも、動揺も感じられない表情で静かに立っている。まだ静かに私を見つめている。

馴染んだ・・・・

 透けた口から出たその一言ですべてを察するのは容易かった。最近、「体が軽い」だとか「体を動かしたくて堪らねェ」だとか言っていたのを思い出す。その時は不思議に思いながらも特に気にしていなかったけれど、今思えば予兆だったのだ。早々に察していれば、もっとなにかできたんじゃないか──── そんな後悔に内心で首を振った。違う。そんなことない。めいいっぱい、楽しんだ。これまでの日々が脳裏を駆け抜けて、次第にぼやけてくる視界に困ったように笑うマルコさんが映る。

「泣いてくれるなよい。これじゃあ拭ってやることもできゃしねェ」
「……っ、嬉し涙よ……。気にしないで。だって、帰れるのでしょう?」

 会いたがっていた家族のところへ、ようやく帰れるのでしょう? それであるならば、めそめそと泣いていらぬ心配をかけるわけにいかない。
 袖で乱雑に目元を拭って、気を抜けばすぐにへたれてしまいそうになる口角を上げて笑顔を作る。震えてしまいそうになる声を張り上げて、せいいっぱいの強がりをして見せた。

「白ひげさまによろしくね! あなたとの日々、楽しかったわ! 向こうでも、元気で!」

 少し面食らったような顔をしていたマルコさんだったけれど、一度目を瞑って、次に開く時にはいつもの無愛想な顔。──── でも、その目がとても優しげで、口元がほんの少し緩んでいるのは、いつもとはちょっと違う。

「お前も、……元気でやれよい」

 彼らしいそんな短い挨拶に全力で頷いて見せる。ちくたく、ちくたくと秒針の刻む音に合わせてマルコさんはどんどん薄くなっていく。このまま笑顔で見送れるかと思えば、意外にも先に表情を崩したのはマルコさんだった。逡巡するように何かを言いかける口が開いては閉まって、また開く。

 言いかけた何かは言葉になることはついぞなく、伸ばされるその手が私に触れようとするその瞬間、まったくおかしなことに、窓の閉め切られた屋内に柔らかな一陣の風が吹き抜けた。思わず目を眇めたそのほんの僅かな間に、私の目の前からすっかりマルコさんは消えて、残るはしとしとと降る雨音のみだった。



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