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耳の奥でざぶん、ざぶんと、寒いような涼しいような音が響く。ゆらゆら揺れている感覚がどうやら夢の中であるらしいことを告げていた。
ざぶん、ざぶん。聞いたことのある音が響き続ける。何度か聞いているうちにそれが波音だとわかった。夏はもう去ったというのに、どうやら頭の中の私はまだ夏を満喫しきっていないらしい。
遠くから聞こえていた波音は徐々に大きくなってくる。するとなにやら騒がしい声まで聞こえてきて、温かな陽の光に灼かれた重たい瞼をあけた。
すると視界一面に広がる驚くほど青々とした空に、白い鳥──── たぶん、カモメが二羽寄り添いながら飛んでいる。いくつもの大きな……それこそ広大な青空を覆い隠してしまいそうなほど大きな白い布のような物の間を自由に飛び立っていくカモメを見つめながら、さきほどよりもより大きく聞こえてくる波音と喧騒が鼓膜を揺らして、ぼんやりする頭のまま視界を下げた。固い壁のようなものにもたれ掛かっているらしく木造の床が見える。
「……?」
鮮明な視界に対して不明瞭な意識。けれどもやけにリアルな感覚だなあ、と不思議に思う中、大きな影が私を覆って、なんだろうと釣られるようにまた視界を上げる。
視界に映ったのはひとりの男性だった。
柔和な笑みを湛えて、けれど私が口を引き締めてしまったのは、彼がハンサムだったからとかそういう理由じゃない。このひとはなんというか……もちろん顔が整っていることはそうなのだが、それよりも。クレイジーと言わざるを得ないような、今どき誰もしていないようなリーゼントの髪型をしたそのひとは真っ白い歯を見せて、にっこりと笑って見せたのだった。
◇
「……っ」
にっこりと笑いかけられてから数秒も経たなかったと思う。ぼんやりとした意識のまま、微かな金属音が聞こえて音の発生源を見遣ると、きらりと太陽を反射する一本の刀が私の首に据えられていた。
そこで男性がひとりじゃないことを知る。いつの間に集まっていたのか、はたまた最初からいたのか。何人もの筋骨隆々な男たちが鋭い視線をみな一様に私に投げかける。まるで突き刺さっているかのようにぴりぴりと肌が痛んだ。例えるなら弱い電流が全身に流れているようにぴりぴり、ちくちくとした痛みが肌という肌を駆け巡っていく。
夢ということも忘れて恐怖に慄いた。震え出す体そのまま無意識に身じろぐと皮膚の切れた音がして首に鋭い痛みが走る。刃が肉に食いこんだのだ。
なんで、こんな夢。いやだ。こわい。
「それ以上動くな」
視線と同じような鋭い声が静かに耳打ちされる。ただただ怖くて、言われたまま硬直した。これ以上動いたら首が落ちてしまいそうだ。そんな想像にまた震え出しそうになる体をどうにか落ち着かせながら状況把握に辺りを見渡す。
けれど少なくはない人数の大男に囲まれてしまっているようで、ここがどこなのかも、どうしてこんな事になっているのかもわからない。本当にこれは夢なのだろうか。夢にしてはリアルすぎる。鮮明すぎる。
掠れた声のまま口を開いたとき、遮られるようにして声をかけられた。
「お嬢ちゃんさ、どこから入り込んじゃったの。だれの“コレ”? こんなに可愛い子なら、おれっち忘れねェはずなんだけどなァ」
“これ”という言葉と共に男性のささくれだった小指が立てられる。そのジェスチャーに馴染みはなかったが意味は知っていた。けれどあいにく私に彼氏はいないし、もちろん愛人などもいるわけがない。そう否定したいのに、刃物を向けられるという初めての自分に対する殺意に声は出ず、ぱくぱくとまるで魚のように口を開閉するだけだった。
「うん? 名前わかんねェか? 一夜限りの相手の名前なんか知らねェってか。なのに惚れちまってここまで追っかけてきちゃった?」
目の前の男はなにも言わない私を特に気にすることもなくひとり喋り続ける。顎に手をあてて、ひとしきり唸ったあと、また私を見つめた。
「けどなー、お嬢ちゃんだってさすがにここに来ちゃいけねェのはわかるだろ? ここ海賊船よ?」
「──── ……かい、ぞく……?」
風にたなびいているのは、十字のようなマークの真ん中に三日月が特徴的な旗。それをその太い指で指しながら、男はハッキリと「海賊船」だと口にした。最近になってからよく耳にするけれど、その言葉をマルコさん以外から聞くなんて思ってもみなくて、ぽろりと声が漏れる。信じられないように聞き返したからなのか、目の前の男が苦い笑みを浮かべた。
「わかんなかったってことはねェでしょうよ。お嬢ちゃんのいるここは白ひげ海賊団なわけ。知らねェとはさすがに言わせねェよ」
──── 息が止まる。
夢か、はたまた自分の妄想か。それでも白ひげ海賊団だと言われて驚かないわけがなかった。どれだけ経っても忘れるわけない。あの日消えていったマルコさんが脳に焼き付いている。マルコさんの笑い声、マルコさんの顔、マルコさんの後ろ姿。浮かんでは消えるいろんなマルコさんに、口は開いていく。会いたい──── けれどそれは、女が恋焦がれる気持ちとは全くもって程遠い、今この場を切り抜けるための生存戦略であった。
「マルコさんは……マルコさんは、ここにいますか」
縋るように──── あるいは、睨みつけていたかもしれない。それでも、目の前の男から視線を逸らすまいと、必死に噛み付いた。