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パタリとページを閉じた。一冊自体の厚みはまったくないものの、数十冊にも及ぶ、己が不在だったときの下手くそな文字で書かれた航海日誌を読み終えて、溜まりに溜まっていた書類をも捌き終えた昼刻。
疲れが顕著に出ている目を揉み解して盛大に鳴る腹に立ち上がる。軋む木製の床を踏み鳴らし、ドアを開ける直前。ベッドサイドの壁にかけられたとある服が目に入れば視線を寄越すしかなかった。
どうもおれには似合わない、おれが買うような服ではないそれはしかし確実にあの日、たしかに身に纏っていたものである。
黒いパンツにグレーのシャツ。おれが着るには少々ラフ過ぎるようにも思えるが、“あの家”での寝間着だったのだから仕方がない。なかなか着心地も良いそれは気に入っていたものだ。
誰から見てもただの寝間着。それをまるで宝物のように──── 間違いなく宝物だが──── カバーまでかけて大事に大事に壁に引っさげているのだから、これを仲間に見られようものなら途端に肴になるだろう。もちろん事情を知っている奴らはそんな事はしないだろうが。
──── あの、異なる世界で数週間過ごした日々がけっして夢ではなかったのだと裏付ける確かな証拠。なまえという人物を忘れないための、大事な物。それを笑うやつなんざ、海に蹴り落としすらする。
「なまえ」
微かに呟いた彼女の名前は静かに消えていく。返答なんてない。脳裏の彼女は笑いかけて、「なあに?」なんて間延びした返答をくれるというのに。
そこまで考えて、いつまでも妄想に囚われている自分に失笑した。らしくない。
らしくはないけれど、あの女を忘れろという方がとうてい無理な話なのである。見ず知らずの、まして異世界から来たなぞという男の言葉を信じてくれた女を。なんの企みもなく衣食住を与え、手を差し伸べてくれた女を。能力を見ても気味悪がらずに綺麗だとわらった女を。
どのような意図があったのかわからないにしろ。それが酒の席であったにしろ。それでも、たしかに。目を見て、頬を染めて、たしかに好きだと零した、あの女のことを。
その言葉を掘り返したこともなければ己が世界に連れ去ることもせず、最後の最後まで何も言わずに別れた海賊らしからぬ臆病な自分だったけれど。 いや、その選択に後悔などはない。してはいけない。“臆病”でも“腰抜け”でも、なんだっていいのだ。
もしあいつが、この世界に来られたら──── なんておぞましい考えを抱くことすら間違っているのだ。自分はこの世界を捨てることなんてできないくせに。オヤジを裏切るなんて、天地がひっくり返ろうともありえないくせに。そんな自分にできないことを、あいつに強いろうなんて──── ああまったく、反吐が出そうだ
ろくでもない考えを振り払い、空腹という欲求に素直に従って昼飯を食うために立ち上がった足はしかし、どうしてかそのままベッドに向かった。やや乱暴に座り込んだのを少し硬いマットが受け止める。その際、枕元でカサリとした軽い音を立てたのは一枚の名刺だった。ピンク色で象られ、キラキラとした何かで装飾されたそれは店名と女の名前が彫られている。その店名を見たとたん、昨晩行ったところのものだと記憶が呼び起こされる。
たしかおれが誘って抱いた女だったはずだ。黒い艶のある髪は背骨辺りまで伸ばされていて珍しく身長が低かった。年齢は成人していたにもかかわらず、この店に保護される前に劣悪な環境に置かれていたせいで体がまだ成熟しきっておらず、この手の職をしている女であれば自慢げに露出する胸をフリルで隠し、終始おどおどしていた奴。
「……あーー……クソ」
酔っていたから気付かなかったが、今思えば、仲間からの目はこれだったのだ。以前までのおれであれば確実に抱かないタイプの女。サッチならおそらく女の方から誘われれば手を出したろうが、おれは絶対に抱いたりしない。なのにそんなおれが、自分から声をかけたのだから仲間が驚くのも無理はないだろう。豊満な胸を持ち、長い体躯に細い手足を持った女をタイプにしていたおれが一変したのだから。そもそも自ら声をかけるということが無かった。この歳にもなればそう性欲に素直に生きてもいられない。サッチは別だが。
なのに昨日ばかりは嫌に興奮したのだ。あの女が──── なまえに、似ていたから。たしか声も少し似ていた気がする。鈴を転がしたような凛とした声。
だから持っていたのか。その場で捨てることなどせずに。枕元に放って置いたままではあったが、名刺はきっちりと持って帰って。
なんとも気持ち悪い男だと我ながら思わざるを得ない。それでも素面に戻った今でもこの名刺を捨てようとは思わないのだから、まったく気持ちわりィ。皺の寄る名刺を机の奥底にしまい直して、ようやく昼飯を食うかと歩き出した時だった。
数メートル前からどこか落ち着きのない足音だとは思っていたが、それが部屋の前で止まり、数回のノックのあと、こちらの返答を待たずに開けられる。一番隊の新入りがどうしてかおれをおずおずと見つめ、言い辛そうに口を開閉させるのだから、誰がなにを、そしてどの程度の馬鹿をやらかしたのだろうかと頭が痛くもなる。
「どっかの馬鹿がやらかしたってェなら、いの一番に報告すんのは医療班もしくは船大工、その後にオヤジだよい」
「え゙、いや、あの、そうじゃなくて、えっと……」
「男がウジウジしてんじゃねェよい、気持ち悪ィ。報告する事があるなら早く言え」
「う。……あー、その、マルコ隊長に会わせろと言う不審な女を甲板で捕らえてやす。その、……サッチ隊長が言うには、隊長の……その……愛人、だっつーんで」
「……アァ?」