半魚人と聞いて浮かぶのは

 ザワザワとした喧騒。けれどそれはけっして不快感を伴うものではなく、むしろ微笑ましさを誘うような。子どものはしゃぎ声が風に乗って鼓膜を揺らして、ふと周りを見るとそんな子どもを見守る母親、あるいは父親、またあるいは姉兄がいた。いつも飄々としてどこか“子どもらしさ”を置いてきてしまった彼らも愉しげな表情で自分よりも幾許か年下の子どもたちを驚かしている声がそこかしこから聞こえてくる。
 このときばかりは童心を思い出しているようだ。正真正銘、年齢的に子どもである彼らに対して、「童心を思い出す」とは些か表現はおかしいけれども。

 そんな心地の良い空間から避けるように、けれど全体を見渡せる。そんな位置──── つまるところ、一本の木の上に登っているのは、とある先輩に感化されてサボっているわけではなく、ただ相棒が腐るほどに持っている甘い甘いお菓子の匂いに少し気分が悪くなっただけの、真っ当な理由からであった。

「……はぁ」

 ──── いや、ちがう。甘い匂いに胸焼けした、だなんて理由はただの言い訳でしかないことくらいわかっていた。『寂しい』なんて感情に蓋をするための。

 今の日々は気に入っている。友人もできた。良い先輩にも巡り会えた。充実は、していると思う。けれどふとしたときに、気付いてしまうのだ。例えばそう、お気に入りのグラスに微かなひび割れを見つけたときのような。
 気付かないふりをして使い続けていても、ひび割れた傷から微かに流れ出る感情がテーブルに広い染みを作り出す。そうなると無視することはできなくなって、どうしようもなくなって、逃げ出したくて、泣きたくなるのだ。自分で拭くまでずっと続く。そして拭き終わるとまたグラスを使い続ける。それの繰り返し。

 会いたい。だきしめてほしい。
 どこにいってたの、と泣いてほしい。
 どれだけ心配かけたと思ってるんだと、怒ってほしい。
 そして、怪我がなくてよかったと、安堵してほしい。

 穏やかな自分の両親の記憶を“過去”とするにはあまりに最近すぎた。ここでの騒がしくて忙しない濃い日々は傷口を塞いでいてくれてはいたけれど、家族連れを見てしまうとどうしても。その瘡蓋は簡単に剥がれていく。

──── だめだな」

 グリムを友人たちに預けていても、なにか起こせばそれこそ監督不行届。普段であれば些細な問題にはならないが、外部の人がいるこのハロウィーン期間中に関してはそうもいかず。自分がしかと監視しなければならないとわかってはいても、この重たい腰を動かすにはまだ勇気が足りなかった。そんな考えに耽っていつまでも木の上にいた自分の腰を上げさせたのはグリムでも、その世話に疲れた友人たちの悲鳴でもなく、ひとりの子どもの泣き声である。

「……うん?」

 ちょうど自分が座る木の下辺り。嗚咽を漏らしながらしゃがみこんでいる子どもがいた。服装と背丈からして年齢はおおよそ七歳前後か。髪の毛がかなり短く切り揃えられているから多分男の子。呼吸すらもままならず泣いている様子は普通の感性を持っていれば酷く心が傷む光景。もちろん自分もまた、純粋に心配するくらいには一般的な良心を備えている。

 驚かせないように静かに木から降りてからわざと足音を立てて気配を出せば、その音に酷く肩を揺らした子どもは勢いよく振り返る。

「驚かせてごめんね、泣いてたから気になって。えっと……大丈夫?」

 とはいえ。あまり子どもの世話は得意ではない。嫌いではないものの、好きかと問われるとまたそれも違う気がする。おおかた迷子だろうと当たりをつけて、早々に学園長室に放り込んでおしまいにする予定だ。道中に誰かしらに声をかければ多分楽しませてくれるだろう。カリム先輩とか見るからに子ども慣れしていそうだし。

 そんな事を考えながらも子どもに視線を合わせて笑顔を保っていたのだが、なぜか目の前の子どもはその大きな瞳をまん丸にして、どんどん水の膜が張られていくではないか。目が落ちそうなんて比喩はまさにこういう事なんだな、と少し現実逃避したくなった。

(あー……これは泣く)

 さて、と覚悟を決めたその瞬間。案の定子どもは声を大にして泣き出したのである。たしかにこの場所はメインストリートからはさほど離れてはいないけれど、それは高い木の上から見渡し、更に視力がかなり良好である人から見ればの話しであって、ここに通う学生であればまだしも目的なくここに来てしまえばそれは「迷った」と言えるほど辺りは木しか生えてない森なのだ。

 だいたいこの森に通ずる場所にはどこも立ち入り禁止のテープが張られている。つまるところ、この子どもが大声で泣きわめいても、メインストリートの喧騒が邪魔をして誰も来てくれないのである。心境は一気に誘拐犯のそれ。学生服を身にまとっているから警察を呼ばれることはないだろうが、なんだか一気にたじろんでしまう。

(そもそもテープが貼ってんのになんで……)

 そんな疑問は浮かんだ瞬間投げ捨てる。子どもとは得てして予測のつかない行動ばかりするものだ。立ち入り禁止、だなんて見ても意味さえわからないだろう。少し面倒くさいなんて思ってしまうけれど、放置するほど酷い人間でもない。かといってこのまま泣かし続けるのは。

「でもな……」

 お菓子はグリムにあげてしまった。致命的な失敗である。そもそもこの子が、自分が怖くて泣いているのか、もしくは見つけてもらった安心感から泣いているのかすらわからない。後者であれば時間が経てば落ち着いてくれるだろうけれど、前者であれば自分が留まるのはよくない。下手に手を出してしまうと逃げ出してしまう恐れすらある。これ以上森の奥に入り込んでしまうと捜索隊を組む羽目になってしまうし、そんな大事にはしたくないというのが本音だった。

「ぼくー、怖くないよー。お菓子食べる? 向こうに行ったら沢山あるよ。一緒に行かない?」
「ひ……っ、うあぁああん!!」
「なんでもっと泣くの」

 言葉が完全に誘拐犯のそれだからである──── そう突っ込んでくれる者は誰もいない。







 刻々と時間は過ぎた。目の前の子は未だに泣いている。大声で泣きわめくことはなくなったけれど、原因は慣れたわけではなくて、単純に泣き叫びすぎてその気力がなくなったことにある。慣れてくれれば良かったが。
 自分の顔はそんなに怖かったのかと新たな事実にショックを受けつつ、ひたすら「お菓子あるよ」と唱えているものの、効果は出ていない。

 いっそ差し出した指でも噛んでくれれば、某アニメ映画のように「ほら、怖くない。怖くない」なんて言えるのだが。いや通じないか? たぶん通じないよね。懐く気もしない。
 
「どうしよ……ね、怖くないからさ……」
「ねーえ、小エビちゃんさぁ。さっきからなにしてんの? そんなとこで」

 ウッワァと心で思ってしまったのは仕方ないと思うのだ。来てほしくなかったトップ十の堂々の一位に輝く先輩の姿に、引き攣りながらもこれまで保っていた笑顔はスンッと抜け落ちた。

「……フロイド先輩こそ、どうして」
「さっきからぎゃあぎゃあ声がうるせぇからさぁ、来てみたの。んで小エビちゃんはァ? おかの人間って小魚いじめる趣味でもあんの?」
「ありませんし! いじめてもいません! 自分だってどうしたらいいのかわかんないんですから!」

 言いがかりにも程があると捲し立てると、目の前の子どもは更に泣き出した。それだけ泣けば体中の水分が失われそうなものだが、まだ枯れる様子はない。あたふたと無意味に両手を動かしていれば、フロイド先輩は面白そうに喉を鳴らした。

「あは、小エビちゃんのくせにヘッタクソ」
「はあ!?」

 威圧感のあるフロイド先輩は更に威圧感を増長させるその長い体躯を屈むことで小さくさせて、ゆるりと浮かべた不敵な笑みのまま子どもに手を伸ばす。当然、両手で目から流れ落ちる雫を必死に拭っているその子は気付かない。空いている脇に手を入れると軽々と持ち上げた。途端に高くなる視線と浮遊感に子どもはしゃくり声をやめ、目を見開かして固まっている。

「ハロウィーンに泣いてるだけとかもったいなくねえ? オレらいっぱい頑張ったんだけど」

 子どもの反応を待たぬまま。というより一切気にせず、その子の足を自身の肩に乗せて肩車したフロイド先輩は空いた片手を乱雑にポケットに突っ込み、少し包装の崩れた小袋を子どもの目の前で揺らした。かさりと音が鳴るそれはたしか、スタンプを七つ集めたときに差し出す用のお菓子ではなかっただろうか。

「これ、でっけー飴玉入ってんの。口ん中で転がしたら甘くてさー。食いたくない?」

 美味しかったなァ、と、生徒には用意されていないはずのそれを、さも食べたと言わんばかりに感想を伝えている。子どもが掠れた声で「あめ?」と尋ねた。お菓子──── というよりは飴に興味が惹かれたようで、その目線はオレンジと紫の配色が施された、いかにもハロウィーン仕様な袋に注がれている。フロイド先輩は相変わらずニヤニヤとした笑みのまま、じっと子どもの行動を見つめている。そんな子どもがゆるゆると手を伸ばすのを見遣ればどうしてか、さっと袋を移動させた。

「ちょっ、フロイドせんぱ、」
「あいことば」
「は?」

 きょとん、とした子どもと同じくきょとん、とフロイド先輩を見つめる。二人の視線に晒されたフロイド先輩はもう一度、今度は一句ごとに区切りながらはっきりと「あいことば」と口にした。

「……とりっく、おあとりーと?」
「ん」

 どうやら正解であるらしい。最後に疑問符を付けたような不安げに呟いた子どもの“あいことば”はフロイド先輩の意に合ったらしく、今度はお菓子を素直に子どもに明け渡した。さっそく綺麗に巻かれたリボンを解いて、その柔らかい頬が膨らむくらいの大きな飴を口に含む。

「あっ、ぼく、ちゃんと飴が小さくなってから飲み込むか、噛んでから飲み込まなきゃだめだよ、わかった?」

 それまではフロイド先輩の行動を見守るだけしかできなかったが、子どもを肩車しながら歩き出したことで我に返り、慌てて隣に並び立つ。誤飲の注意を促すと子どもはしっかりと頷いた。やっと自分に対して恐怖心はなくなったらしい。お菓子効果か、先輩効果なのか。

「……なんか、フロイド先輩にできて自分にはできなかったって、悔しい」
「あ?」
「なんでもないです」

 自分で泣かれるのであれば、フロイド先輩でも泣かれて当然のはず。なんだか納得いかない気持ちをそのまま声に出せば、フロイド先輩が真顔のまま聞き返してきた。その表情といい声といい、子どもを泣かせるに充分であるはずなのに。絞められたくはないので言い返しはしなかったが。
 話題を逸らそうと子どもに話しかける。断じてヘタレではない。勝てない勝負はしない主義なだけである。

「ぼく、名前は? お父さんか、お母さんと離れちゃった?」
「っ、」

 どうしてか、びくりと小さな体を震わせた子どもは弱々しく首を振る。

「うん? ならお姉ちゃんかお兄ちゃんとはぐれちゃった?」

 その問いにもまた、首を振る。

「……ひとりできたの?」

 これも首を振った。
 なんだかおかしな反応に、試しに「ぼくの名前は?」と聞いてみたけれど、それに返ってきたのも、ただ首を振るという行動のみ。とうとう自分の眉がへにょりと下がってしまった。じつは見当違いで、まだ自分は怖がられているのかと思ったが、それにしては話しかければちゃんと目を見て返答してくれるし、「美味しい?」との問いには頷いてもくれたことからその線は無いだろうと結論付ける。
 その一連のやり取りを見ていたフロイド先輩も首を傾げていた。

「名前わかんねーと探しようなくね」
「うーん……」

 まあ、最悪名前がわからなくても今この子の着ている服装で校内放送から呼びかけることは可能だが、正直迷子の数が多ければ名前の有無はそれだけ大きくなる。知っているに越したことはない。

 それにもし親がこの子を探しに校外へいた場合、放送は届かない。もちろん繰り返し放送して、親がきちんと迎えにくるまで保護するのが学園長室での役割になっているのだが、正直それまでフロイド先輩が子守りをし続けられるとも思えなかった。単純に気まぐれであるという性格もあるが、生徒には与えられた仕事がある。そのために学園長室には手の空いた教員が常駐しているのだが、この状態のこの子を教員に渡しても、おそらくまた泣きわめく。今は不思議とフロイド先輩に懐いて大人しくしてはいるけれど。

(でもなあ)

 この感じ、どっかであったような。

(…………あ、昔のバイトんとき)

 昔、大手の百貨店に収容されてある衣服店に勤めていたことがある。休日の来店者数はゆうに五桁を越え、そのため迷子の子をよく預かっていた。まあ子どもが苦手な自分は専ら放送役で、基本的に子持ちの主婦メンバーたちがあやし係になっていたのだが、そんな時出会ったある子どもにそっくりなのだ。たしかそのとき、あの主婦は──── …… “幼い子どもだとね、例え落ち着いたように見えても、内心では親とはぐれた焦りと恐怖からパニックを起こしているのよ。だから名前も言えないし、思い出せない。ほら、大人でもパニックを起こすと自宅の住所がぱっと出てこないとか、生年月日が言えないだとか、あるでしょう? それと一緒なの”

「……たぶん、時間が経てば話してくれると思います」
「ふーん」

 渋るかと思ったフロイド先輩は意外にも興味なさげに返答すると、子どもを抱え直してそのまま歩き出した。どうにも少し機嫌が良さそうである。

「……面倒くさ、とか思わないんですか?」
「別に。小エビちゃんと一緒に楽しませりゃいーってことでしょ」
「は?」

 ──── かくして、恐怖の大魔王と回るドキドキハロウィーンが開催されたのであった。