人間のようなこと〈aph /フランシス〉BLでも夢でもない


男をひとり拾った。


男は深夜の娼婦街で転がっていた初老のいかにもみすぼらしく、獣小屋のような、生ゴミのような、おぞましい臭いを纏ってはいたが、シンナーやハシシやコカインの臭いのしない初老の男で、ネオンを受けて赤く光る革靴の靴先で男の顎を持ち上げて、その汚らしい顔を隅々までよく検分すれば、皺と目ヤニに埋もれた瞳の中に一瞬いかにも「大人」のような知性が見えたような気がした。こんな「若造」にぶしつけに検分される間も、男は辛抱強くじっと我慢しているような、諦めているような、このまま気まぐれに殴り殺されてもそれはそれで仕方がないと悟っているような、そんな表情でされるがままとなっている。従順なタイプは悪くない。


「アンタの人生、俺が買うよ」


男の皺くちゃの手に札を何枚か握らせてやれば、それだけで男は頷いた。たったあれっぽちの金額で、男は男の余生を俺に売ることにしたらしい。
そういう決断力の速さは悪くない。いや、軽率な行動だろうが、少なくともこの時点で俺はこの男にそう酷い目に合わすつもりなどさらさらなかったのだから男にとってこの決断の早さはまさしく人生の転換にふさわしいものだった。



俺は男に、別の人間の人生を与えた。


男をタクシーに乗せて、男の異臭に嫌な顔をする運転手に金を沢山握らせて行き先を告げ、俺は男とは別のタクシーで同じモーテルへと向かい、到着した学生やバックパッカーが利用するような安いモーテルに男を放り込んで、シャワーに入らせた。何日ぶりか、何ヶ月ぶりかというシャワーから上がった男に髭を剃るように命令し、出てきた男の顔をみればやっぱり俺の目に狂いはなかったと感じ、満足する。男に安い大量生産のスーツを着せれば自信のない小学校教師に見えるだろうし、オートクチュールのスーツを着せれば理性的で知的な実業家に見えることだろう。


しかし男が何故か恐る恐るといった顔で「私はこんな成りをしているがキリスト教徒です」と告げてきた時は腹を抱えて笑ってしまった。
まさか娼婦街で拾った初老のホームレスにレイプの心配をされるとは思わなかった。このときのエピソードは今や俺と男の間での笑い話になっているが、そのときの男の脅えきった困惑しきった表情は今でも忘れられない。男は自分の人生を変える瞬間に立会いながら、いまだ宗教の戒律を守ろうとしていた。俺には分からない、人間の感性だった。



名前は聞いていない。
必要なかったからだ。
俺は男に「フランシス」と名前をやった。



そして出身地や卒業した大学、学位、経歴、趣味、全てを与えた。
人間一人の経歴を詐称するくらい、俺には造作もないことだった。フランシスはそう頭の悪い男ではなかったらしく、俺の与える「フランシス」の人格を必死になって習得していった。テーブルマナーも覚えた。スーツを仕立てるという事も、傲慢に振舞う事も覚えさせた。権力を持つ60代の人間の男らしい喋り方や、態度、相手を品定めする目。男はみるみるうちに吸収していった。やがて二年もすれば、マホガニーのデスクの前で厳しい顔をして書類を握らせ、時にヒステリックに生意気な青年相手に怒鳴り散らせば立派に企業のCEOに見えるようになった。


────そして俺は男に妻も与えた。
女は知りたがりではない、浪費もしない、与えられた事象を淡々と受け入れる慎ましい中年の女だ。女は夫となったフランシスの経歴にはさほど興味はないし、ゴシップも好きではない。ただ曾祖母の代から受け継がれた料理のレシピや作法さえ守っていけば幸せというような女だ。男はパリ郊外に豪邸を構え、児童養護施設から養子も取らせた。


俺は男に子供を作ることだけは許さなかった。
引き取った養子に会社の相続をさせる事も許さなかった。養子には適度に金をやり、大学へ行かせ、この仕事以外の仕事をするように教育する事を誓約させた。俺の与えた人間の人生を、次の代まで続けさせるほど責任を持ちたくなかったからだ。この家族ごっこを何代にも渡る一族とする事が煩わしかったからだ。それに、男には俺が手にしていることの模倣をさせてやったが、俺にはできない子供を持つということをただの「人形」にさせることは許せなかった。
アーサーは俺のこの「作品」をさして「まるでマイフェアレディだな」と苦い顔をしたが、俺にはどうって事のない事だった。



俺は男に、俺の生きたかった人生を与えた。



フランス一の美術大学を卒業し、アパレル業界で成功し、パリを歩く女の脚には俺のデザインしたハイヒールを履かせる。世界中から集められた美女が俺の背中を指差して「見て、あれがフランシスよ」とうっとりと囁きあう。社交界に華々しく輝き、世界中のセレブリティー達が次に俺が何を出すのか待ちきれんばかりに期待する。そして高いばかりの上品な店で政治家とつまらない話をし、経済を語る。やがて女たちは上から下まで全て俺のデザインしたファッションを身に付ける。


俺は俺の生きたかった人生を男に与えた。
俺の生きたかった人生。
俺が望んだ人生。


フランシスが成功していき、やがて全て望んだ通りになったが、俺の内臓にじわりじわりと染みわたったのは嫉妬だけだった。あの安い油や香水の汚い臭いが充満した娼婦街で転がっていた男が、一体何故そんな人生を歩めるんだ。傲慢だ。分かっている。俺がそうしたのであってフランシスは何も望んじゃいない。分かっている。分かっているんだ。―――でも、



久しぶりに菊に会った。
相変わらず千年も生きているとは思えないほど子供のような顔をしている。会議場で見る菊は、ファッションに特にこだわりはないのかバイパス沿いにいくつも並んでいる全国チェーンの上下セットネクタイ付きで18000円のスーツを着、菊の体系にマッチしているとはいえない安っぽいスーツが更にこいつを子供のように見せている。いつか東京で就職活動をしているという学生の群れを見た事がある。カフェから見下ろすあの学生の群れは、男も女もみな制服のように揃いのスーツを着て、同じようなカバンを持ち、靴を履き、一同真っ黒な髪をして、まだニキビの残る少年の顔をして、何も考えていないような表情で粛々と駅から出ては駅へ入って行った。この大量生産の学生の中から、個性を見つけて同僚を選ぶだなんて日本人の感性は凄まじいな、と思った。この国は人生の次のステージへ行くには常に何かを突破しなくてはならない。まるで現代の儀式だな、と思った。
菊はその群れの中にいてもおかしくないほど、何を考えているのか分からない従順な若者に見えた。


パリで着る服がないし、スーツでいれば少なくとも子供には間違えられませんからね、と言い訳のように話す菊は、時々会議のない日だってスーツを着ている。
パリの空の下で見る菊のスーツは決して似合っているとは言えず、野暮ったくて、俺はこいつを連れて歩くのが少し疎ましいほどだった。


「そういえば、暇つぶしにアルバイトを始めたんですよ」
「アルバイトぉ?」


思わず聞き返した俺に菊は「はい」とはにかむように頷いた。
菊は働いている自分というものを誇らしく思っている様子で、俺はますます困惑する。アルバイト?そんなティーンがやるようなことをわざわざしなくったって、俺たちには不自由しない金が月々支払われる筈だ。財産だってある。しかも菊が始めたアルバイトってのは近所の業務用スーパーのレジ打ちだという。なんて地味なアルバイトなんだ、と俺は内心で頭を抱えたくなった。面倒な人間関係だのタイムスケジュールだのいうものにわざわざ好き好んで首を突込み、自分の自由な時間を奪われて、生意気な人間にへこへこと頭を下げる。そんな事の一体なにが面白いのか俺にはさっぱり分からない。ましてやスーパーのレジ打ちだ。学生や主婦の小遣い稼ぎならまだしも、一体何が嬉しくてわざわざそんな事をしなくっちゃいけないんだ。


菊のことは好きだが、菊の趣味は相変わらず分からない。
俺たちは望めばなんだってできるじゃないか。不況だろうと腹の内で何を考えていようと、なんだろうと表向きは「全世界協力しあって共に生きて行きましょう」と仲良く手をつないで輪になっているこのご時勢、この先三百年は、国家が消滅するような自体にならないだろう。つまりあと三百年は遊んで生きていくわけだ。それなのに、たった自給780円で、一日延々とスーパーでレジを打ち、品出しをするというのか。俺にはさっぱり訳が分からなかった。
しかし菊は、どこか嬉しそうに微笑んだ。



「人間のようなことを、してみたかったんです」






フランシスのオフィスへふらりと行けば、上へ下への大騒ぎになっていた。
またなんかのデザインがパクられでもしたか、と日々続いている商標権やデザイン権の裁判のことを思い出して顧問弁護士達の手際の悪さに舌打ちして、そろそろ人員を入れ替えて社内の空気を入れ替えてやろうと考えながらエレベーターへ乗った。フランシスのオフィスがある最上階で降りると、ブルネットの美人秘書が真っ青な顔をして俺の胸に飛び込んでさめざめと泣いた。面倒だな、フランシスにクビにするとでも言われたのか、と考えながら美人秘書の肩を抱いて優しい言葉を向ければ、秘書が顔を上げた。


秘書の言葉を聞いて、泣き崩れる彼女を放り出して、フランシスの執務室へ飛び込んだ。
俺がわざわざスロベニアまで足を運んで購入した絵画にも、150年前のデスクにも、モロッコから取り寄せた絨毯にも、筆を振りまいたように真っ赤な血が飛んでいた。


「私は人間です。」


遺書にはただ一言そう書かれていた。