冬虫夏草〈蟲師/ギンコ〉夢?


全身から山が呼吸する音が聞こえてくる。


胎児が身体を丸めるように身体を小さく丸めて、腐葉土の上で目を閉じる。
閉じているつもりもないけれど、なんだかこうせずにはいられない。もう太古からずっと目を閉じているみたい。眠りと意識の間を行ったり来たりして、浮遊していく意識が心地よくて、ただ自分が呼吸する音ばかりが妙に大きく耳に届いた。濡れた土の匂いがする。冷たい。でも、石の上のような冷たさじゃない。わたしの肉体を柔らかく受け止めるような、わたしの肉体を守るような、深い親愛を持った土の暖かさ。目を閉じているから、夜なのか、昼なのかももう分からない。一体いつからこうしているのかも。自分は誰だったろうか。ぼんやりと浮かんでくる顔はどれもこれも百年も前に生き別れたようで…。


ただ、山が呼吸する音が聞こえてくる。
腐葉土にじんわりと夜露が染みこむ音が聞こえる。幾億の生命が呼吸するかすかな音が聞こえる。山が大きくなっていく。少しずつ。少しずつ。じんわりと伸びていく枝や草木が山を大きくしていく。ああ、わたしは、誰だったろうか。







「春雨か。一雨来そうだな」


そう呟いたギンコは鈍色に光る空を見上げる。
夕暮れに差し掛かろうとする山にはうっすらと靄が立ち込め、空にはたっぷりと水を含んだ墨をひと刷け濡らしたような薄く、それでいてじっとりとした雲が広がっている。山頂から落ちてくる風が波のように頭上の木々を揺らし、冷たく濡れた山の空気を震わせ、細く繊細な金属音のような虫の羽音や夜を前にネグラへ帰ろうとする山鳥達の鳴き声や、時折頭上で木々がぶつかり合う、かかか、かかか、という音が山の中を支配していた。


こういう時の天気は嫌いではなかった。
なんだか内蔵がしんから冷たくなっていくようで、神経のひとつひとつが研ぎ澄まされ、透き通っていき、雨を含んだ空気にこの細胞のひとつまでもが吸い込まれていくような、原始的な生命としての歓びすら感じるような気がした。しかし、人間の男としては通り雨は厄介なもの。それにここは人家とは縁のない山奥。獣達の領域だった。


「こりゃ濡れ鼠だな」


空を見上げたギンコの頬に、細い雨とも霧とも分からぬ水が触った。
蟲煙草に火をつけて、半ば途方に暮れたような気持ちで空から首を下ろして前を見やれば、薄赤いものがチラチラと視界に揺れているのが目についた。獣ではない。それは芍薬の文様が描かれた打掛だった。随分と古ぼけちゃいるが、よくよく見れば芍薬の花弁がキラキラと輝く。金糸でも縫い込められているらしい。ほぉ、と目を僅かに見開いてギンコがその芍薬の打掛へと近づけば、打掛の襟首からは女の頭が覗いている。長い黒髪や、芍薬の打掛が風に弄ばれるがまま頼りなく揺れている。死んではいない。若い娘らしかった。娘は木の根を枕にでもするように頭を置き、その白い手首に蟻が這うのも構わず、まるで自分の身体を守るように、下生えですらない柔らかな苔や枯葉の上で小さく丸くなって眠っていた。
ギンコは跪いて娘の肩を揺さぶった。


「おい、行き倒れか?おい」


おい、と何度か声を掛けて娘の小さく丸い肩を揺さぶってやれば、決して快適とは言えぬ土の上でうっとりと眠っていた娘の瞼が震え、ひどく重たく億劫なようにその瞼を持ち上げた。おや、とギンコは感じた。なんだ、この違和感は?まるで痴呆めいたうっとりとした目が、何か憧れのような光を讃えて、どこというでもなく虚空を虚ろに見つめながら、何度か瞬きを繰り返した。ただの娘ではないらしい。そりゃあこんな山の中で眠っているんだ。ただの村娘ではないだろう。ギンコは腹の中でそう算段をつけたがさして驚くこともなく、弱々しく起き上がろうとする娘に手を貸した。身を起こした娘はしばらくぼんやりとしていたが、ギンコの「おーい」という間延びした呼びかけに答えるように、瞳に人間らしい色を取り戻した。肩を支えるギンコの腕に手を置いて、少し困ったような顔をして、ギンコを見上げる。



「なんだか、目の奥がぐらぐらする」
「そりゃ寝過ぎたんだろう」



ギンコは「じき雨になる。今のうちにどっか屋根を探しとこう」と娘の身体を持ち上げるようにして立ち上がらせたが、娘の足は萎えきっていて、とてもではないがこの湿気を多く含んだ山道を歩いていけそうにはなかった。しかも娘の足には足袋ひとつ履いてはいない。上等な打掛を着ている割りには、中の着物は木綿のどうという事のない山娘のものだ。夜鷹、夜発の類だろうか。その豪奢な打掛で男を誘い、山の中で情交を済ませる類の女だろうか。だがそんな女にしては、随分と、浮世離れした危うさがあった。娘とも、女とも分からぬその娘は、年の分からぬ“揺れ”があった。女の生命の輪郭が揺れている。女を女たらしめている魂の輪郭が震えている。ギンコは跪いて、背負った木箱からテキパキと手ぬぐいや厚布を取り出しては女の足に巻いてやった。地下足袋くらいにはなるだろう。下手に素足に草履を履いているより、山歩きはこれの方が都合が良かった。


「まあ地面は土だ。怪我はしないだろう。これでちょっと我慢してくれ。あいにく俺も、あんた背負って山歩きできるような男じゃないんでね」


跪いて自分を見上げるギンコの肩に手を置いたまま、女がコクリと小さく頷いた。
女は当たり前の女のようにも、人間ではないもののようにも見えた。女の輪郭が強くも弱くも、遠くも近くもなる。揺れる蝋燭の灯のようにじりじりと女の魂が揺れている。人間であるものなのか、人間ではないものなのか、その境界を彷徨うように揺れているのをギンコは感じ取った。ただ、害はない。そこにあるだけのもの。





―――――ここで眠っていなさい。
ずっとここで眠っていなさい。お前は千年ここで眠っているの。お前は千年ここで生きるの。






「どうした?」


とぼとぼと男の後ろを付いて行くわたしを、男が何度も何度も振り返って確かめるように目をやる。
なんだかもうずっと歩いていないみたいに、足はふわふわとして、頼りがない。足の指の先のひとつにまで、太く熱い血潮が躍起になって血を送る血管の震えが伝わるように足が震える。手足の関節の当たりが、水でも含んだように張る。たわんでいた肉体に血が巡る。その巡りが強すぎて、肉体が妙に張る。膨張した瓜のようだと思った。妙に手足が冷たくて感覚がない。意識に一枚も二枚も薄い膜が掛けられたみたいに、ぼんやりとする。これも夢の続きかしら。この男は夢なのかしら。あれ、でもわたしは夢を見ていたんだろうか。わたしはあそこで何をしていたんだろう。わからない。でも、”そういうもの”だという気がする。空が空であるように。土が土であるように。そういうものは、そういうものであるようだ。



男はテキパキと土を歩いた。男の通った土と同じ土を踏めば歩いていけるのだと気づくのにそう時間は掛からなかった。
男が踏んだ土を踏めば、草木はわたしの足を引っ掛けはしない。ただ男が得てして選んだ柔らかな土がわたしの足を受け止め、次の土へと弾くのだ。うまいもんだ、と男が振り返った肩越しにちょっと笑った。わたしもちょっと笑った。わたしは山を歩くのは初めてではないのかもしれないと思った。それどころか、わたしを取り囲む山全てに堪らない親しみを覚えた。



やがて男は岩の洞を見つけ、当然のようにそこに入り込んだ。
男の土の上に立ったまま岩の中に立つ男を見ていれば、男は当然のことのように「ん」と言った。「ん」という言葉の中にはわたしもこの岩へ入ることが当然という響きがあった。でも、わたしはすこし、こわかった。男はそんなものを見透かしたように「大丈夫。崩れやしない」と言った。男が手を差し出したから、わたしは男の手を取った。熱い手だった。男の手が一瞬、わたしの手を取ってひやりとしたような気がした。男の指が乾燥していた。乾いて、硬くなった皮膚が白くなっていた。白い皮膚の下で新しい皮膚が盛り上がり、古い皮膚を押し出そうとしているようだった。男は一瞬引いた手を隠すように、そっとわたしの手から離れた。男はそうやってわたしを岩の中へ率いると、荷物を下ろし、岩に座り込んだ。わたしも男がするように座った。男は煙草を取り出し、咥えようかと一瞬思案するような顔をしてから止めた。


「足はどうだ」


男は煙草をしまって、わたしの足に触れた。男が幾重にも巻いた布には、ほろほろとした土の欠片で濡れそぼり、湿っていた。男は丁寧にわたしの足から布を外した。布を巻いていた肌が僅かに赤くなり、そこだけ妙に熱かった。男はもう片方の足も同じように湿った布を外してから、良さそうだ、と頷いた。わたしも良さそうだ、と思った。生きているようだった。





妙なものを拾った、とギンコは思った。
妙なもの、の輪郭は日に日に強くなっていった。模糊(もこ)とした人間ではないもののようだった輪郭が震え、徐々に大きく、濃くなっていく。妙なものがはっきりとした形になっていく。当たり前の女になっていく。ただ、山からは出られない。直ぐに止むだろうと思っていた春雨は永遠のように降り続けた。時間の概念が遠くに消え去り、ただ日に日に土の匂いが濃くなっていく。遭難した、のではなかった。住処とした岩穴を少し歩くと、眼下に人家がぽつぽつと広がり、棚田になっているものがはっきりと見えた。歩いていけば人家に行くこともできた。どうという事のない平穏な人家であった。そこでいくらかの米や味噌を買い求めると、また、気がついたら山に帰っている。帰ろう、と思って帰るのではなく、当然のことのように山に帰るのだ。




山の中で女が熱い汁を作って待っていた。
女は山のことをよく知っていた。様々な茸を取り、泥を落とし、簡易に組み立てた拳ほどの石を丸く敷き詰め、中に枯れ枝を入れ、鍋を置き、味噌を溶かして熱い汁を作った。女は女のようであった。初めて女を見た時にはなかった、人間臭さを覚えた。女の拾ってきた枯れ枝が生乾きだと、よく白い煙が立った。白い煙が積み上げられた石の間を縫うように細く、濃く、逃げるように雨の中に溶け出した。女は煙に目を赤くしながら、笑っていた。蟲笑いだ、とギンコは思った。まだ感情もないような赤子が、訳もなく笑う。赤子が笑うのではない。赤子の中にいる蟲が笑わせるのだ。女は時々そんな蟲笑いをした。自分でも笑っていると気づかぬうちに笑っている。女には足袋と下足を買い与えていた。しかし女は裸足でいる事を好んだ。



ギンコは女の差し出した手に椀を渡し、女が椀に熱い汁をよそう。
雨とも霧ともつかぬ暖かい雨だった。山の土が含む水が水蒸気となり降らせる濃い雨だ。里に降る雨とは違うものだった。寒くはない。ただ、なんだか眠くなるのだ。女の作った熱い汁を飲みながら、ギンコは女を見た。女は美しかった。銀色の雨を受けて、女の肌がしっとりと光っていた。女は一日、一日、じんわりと膨張した。消え入りそうだった女の影が濃くなっていき、血生臭いもののようになっていくようだった。害はない。少女が初経を迎えるようなものだった。それまでは女という生き物ではなかったものが、ようやく女という本来のものになる。当たり前のものに、女がなろうとしていた。



すっかり習慣となった蟲煙草を咥えようとして、ギンコは止めた。
女にそれが害だと気づいていた。煙草ならば、良い。だが蟲煙草は駄目だった。女は人間の女らしく見えたが、人間ではないものだという事は分かっていた。ただ、女の輪郭が雨に溶けたものが皮膚を抜けて身体に入り、それがすっかり血潮に巡り、山から降りられなくなった。蟲煙草を吸っていないのに、微弱な蟲のひとつも姿を現さないのはそのせいだろう、とギンコは思っていた。女の作ったものを口に入れ、それが血潮となる。下手をした、と思ったが、どうにも抗えないような気がした。
女の作った毒が血潮となって肉体を巡り、今この時ばかりは女と同じ成分になろうとしているようだった。


岩の上にたっぷりとした土を巻き、枯葉を巻き、里で手に入れた厚手の布団を敷いて、寝床とした。自分一人であればどうという事もなかったが、女に自分と同じことを強いるのは気の毒な気がしたせいだった。女は弱かった。里の女のような力強い生命力ではなかった。蟲の仄かな光りを帯びた弱々しいものだった。




女の眠りは深かった。
一度目を閉じると、そのまますとん、と落ちていくように意識を失い、そのままぴくりと動くこともなく、寝返りひとつ打つことなく、昏々と眠り続けた。そういう時、女の身体が仄白く光る。しっとりとした水と土の匂いの中で、女の身体が土蛍のように弱々しく光る。そうして朝になればまた女の輪郭が濃くなる。文献で読んだ中にそんな女はいなかった。蟲師としての興味。ただ、そんなこと以外のものが自分の腹のうちで燻っているのを覚えた。男としての、もの。


丸くなって眠る女の肩に手を置いた。
女の肩の陶器のような硬質な冷たさとくらべて、自分の手が熱いことが分かった。女が水のように透明で他愛の無いものなら、自分は肉を食う獣のように生臭いものだと感じた。女の肌にじんわりと自分の体温が溶け出し、女の肌が暖かくなる。女がすっと目を覚ました。土の上で寝ていた頃のような模糊とした目ではなかった。夜だというのに眩しそうに目を細めて、頷いた。ギンコはそのまま手を滑らせ、女の首に触れた。女は蟲笑いのような他愛もない笑いを浮かべながら、丸くなった身体をほぐすように仰向けにした。女の身体の下で幾重にも重ねた枯葉が潰れる音がした。濡れた空気の中に、女の髪の匂いが濃く香った。女は幼子のような肌をしている。湿って、水をたっぷりと含んだ肌。しんなりとした胸に手を置くと、女はくすぐったそうにくすくすと笑い、ギンコの髪に手を差し入れた。ギンコの耳の奥で女が頭を撫でるざりざりとした音が反響する。女が女であることを確かめるように、ギンコが慎重に女の肌を解していく。ますます女の匂いが濃くなった。蟲と交わってはいけない。それは道理に反している。それでも自分の体内に流れる血潮が女を抱いた。腕の中で女の輪郭が撓んでいき、溶け出し、熱くなり、女の鼓動と己の鼓動が調和していく。女の匂いが濃くなる。汗が目にしみる。女は汗ひとつ掻いてはいない。それでも濡れている。抱く傍から手から取り零しそうになる女の身体を掻き抱く。女が泣いた。笑っていたのかもしれない。ただ静かだった。女の作ったもので作られた血潮が隅々まで散っていく。作ったもの。作られたもの。それらが繋がり、循環する。雨が降る。土が蓄える。水蒸気になる。雲になる。そして雨へと戻る。至極当然な自然の摂理のようだった。


女は一言、「しあわせ」と呟いた。
ギンコが手を止めて「ん?」と女を見下ろせば、ギンコの額から汗が一滴女の頬に落ちた。
女はうっとりと目を細めて、腕を伸ばし、ギンコの頭をその乳房に抱いて頷いた。


「しあわせ。当たり前の夫婦みたい。だから、しあわせ」






翌朝、女は目覚めなかった。
心配になって鼻に手を当ててやれば、小さな鼻孔からは微かに、しかし規則正しい呼吸が続いた。女の眠りは深い。きっと疲れが出たのだろう、とそうは気にしなかった。人間ではない女の身体には負担が大きかったのかもしれない。ただ、女の身体はもう光りはしなかった。ただの女だった。しかし、女は翌朝も目覚めなかった。瞼の下で眼球が動いている微かな震えがあった。夢を見ているらしい。女が微笑んでいた。蟲笑いではなかった。なにか幸福な夢を見ているらしかった。


ギンコは丁寧に女の黒髪を解いてやり、肌を清め、女を眠らせた。
いくら眠っても女は光らなかった。それどころか、夜を吸い込むように暗くなっていった。肌の色ではない。ただ、女の周りの空気だけ光りが屈折し、光りが女を避けるように暗い。そしてその暗さがどんどん濃くなっていく。銀色に霧雨が光る昼間であっても、女だけは夜のようだった。やがて、女の鎖骨から胞子嚢が芽を吹いた。細い深緑のそれは女の白い肌にしっかりと芽吹いていた。しばらく思案したのち、ギンコがそれを手折ったが、翌朝になればまた同じように芽吹いた。



ギンコは女に毛布を掛けてやり、霧雨の中を歩いた。
ひと月は経っている筈だったが、ギンコが女と歩いた土はそのまま道となって残っていた。濡れて滑る土を踏み外すことのないように、一歩一歩踏みしめながら、女と来た道を戻った。やがて女が眠っていた土を見つけた。そこは女が丁度身体を丸めて眠っていた時と同じ範囲に、深緑の胞子が芽吹いていた。もろもろとした柔らかい苔むした土の塊ごと、胞子をひとすくい手の平に掬いあげれば、胞子は弱く白い光りとなって空気中に散った。蟲だった。


ギンコはそのまま爪の間に土が入り込むことも構わず土を掘り返した。
柔らかく濡れた土をいくらも掘り返さないうちに、土の中から女が現れた。女は、人間だった。ギンコに熱い汁を差し出した女のような、人間でもない魂の輪郭ではなく、列記とした血生臭い人間だった。
女の名前を呼ぼうとして、初めて自分が女の名前を知らずにいた事に愕然としながら、ギンコは「おい」と怒鳴りたいような、しかし声として出て来ぬ歪みを口元に抱えたまま、歯を食いしばって女を覆っていた土を掘り返した。ずっしりと重たい女の身体に手を差し入れて、乳飲み子にするように首に腕を回して女を抱き起こし、強く何度か揺さぶれば、女はそのまま、幸福そうに眠った顔のまま、もろもろとした土となって砕けていった。砕けた土に寄生していた蟲が細い糸のような光りとなって空気中に散った。




果たして寝床に女はいなかった。
ただ女の着ていた芍薬の打掛一枚残っていた。







芍薬の打掛を頭に被り、幾分粒の大きくなった雨避けにして里に降りたギンコに、里の者達が目を丸くした。
ここひと月、すっかり顔なじみとなっていた百姓の男がギンコの被った打掛を指して言葉なく震えた。やがて村人たちが集まり各々目を丸くして、言葉少なに「これで大丈夫だろう」と呟いた。ただ、女に似た面影の年配の女一人が、芍薬の打掛を手に取り膝から崩れ落ち、むせび泣いた。



女は山への授け物だった。
女にたっぷりと酒を飲ませて眠らせ、あるキノコを食べさせる。すると女はそのまま生きたまま、仮死となり、永遠の眠りにつく。そして眠る女を土に返せば、女からはやがて胞子が生え、女の魂は胞子となって、山に散り、豊かな山となる。女の骸は冬虫夏草となり、女の魂は胞子に吸い上げられ、肉体は土となり、山を豊かにする。そうして女は山に飲まれ、山の意志となる。女は山の神のものとなり、里の物は山のものを頂き、身を肥やし、そしてまた娘を山に返す。その原始的な自然の循環を、里の者たちはもうなん百年と行なっているのだった。だが、今年はもう駄目だろうな、とギンコは腹のうちで思った。見上げた柿の木の枝にうねうねとした線虫のような蟲たちが細い光りを放ちながら団子になっている。また蟲が集まりだしたらしい。蟲煙草を加えて、ふっと蟲に吹きかけてやれば、蟲がゆわゆわと飽和して崩れていった。



また蟲を寄せる。
女の肉体に、女の作った血潮を返したからだろうか。



里を出るとそれまで続いていた雨が嘘のように止んだ。
すっきりとした薄青い空が広がっている。だが山の上から小さくなっていく里を見下ろせば、
里にはまだ靄が掛かったように細い雨が降り続いていた。まるで里にだけ降り続くような霧のような雨の中で、時折幾千の蟲がキラキラと小さく光った。





風の噂でもう百日も雨が振り続ける村があると聞いた。
そうして作物の育たぬぬかるんだ田畑を捨てて、村は灰燼となったと。
人の味を覚えた蟲のせいだろう。ただ耳の底で女が笑った声がぼんやりと残っていた。ギンコは二度と、雨の里には赴かなかった。