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あれ?誰かんちに転がり込んだんだっけ?


なんだか妙に手足に力が入らないまま、目を開けるとうす暗い部屋の中、自分のじゃないベッドの上に寝ていた。
かすかな明かりに目をやれば、それは電気スタンドではなく太い蝋燭から漏れる明かりだった。しかもそれはアロマキャンドルのような蝋燭ではなく、大真面目に明かりとして使用されているような蝋燭だったことに少し驚く。それにシーツからは流行りの柔軟剤のような甘い匂いはせず、どこか子供の頃の体育倉庫を思い出すような埃とカビ臭いマットのような匂いがする。最近飲み会多かったし、誰かんちで雑魚寝することも多かったけど、こんなベッドだったかな…。あれ?飲み会なんてしたっけ?してないな…じゃあ大学の仮眠室かな。また研究サボって寝てたんだっけ。……いや、違う。寝てなんかいない。


ゆっくりとさっきまでの行動を思い出していくにつれて、力の入らないままだった手足からゆっくりと血の気が引いていく。違う。飲み会なんて行ってない。誰の家にも行ってない。仮眠室で寝てもいない。


だってわたしは、帰宅中だった。


研究室を出たときはまだまだ明るかった。
じんわりと汗を掻いたのも、日焼け止め買わなきゃな、と思ったのも覚えている。
シーツにうつ伏せになったまま、目だけを動かして部屋の中を確認すると、その部屋が変わった部屋だってことが分かり、自分の呼吸する音ばかりがひどくうるさく聞こえる。そうだ、この部屋、電化製品がひとつもないんだ。それどころか、なんにもない。フローリング、というより床板丸見えの木目の床に、木を組み立てただけの椅子と机、そしてこのカビ臭いベッドの他には何もない。窓もない。おかしい。こんな部屋、知らない。こんな古臭い部屋、絶対に知らない。

ここ、どこ?
なんでこんな場所にいるの?

怖い夢を見たように硬直する身体。指先から血の気が引いて固まっていく。指一本動かすことができない。
ただ眼球が乾いていくのもかまわず目を見開き、おそるおそる息を吐く。落ち着け。落ち着くんだ。まずは体を起こして、周囲を確かめよう。落ち着け。落ち着いて。大丈夫だから。落ち着いて。そう心の中で何度も唱えるのに体は落ち着くどころかどんどん冷えていく。指先が震える。体を起こすことなんてできない。その時足音が扉に近づいてくるのが聞こえ、寝たふりをしようかと一瞬考えた間にドアは開いた。現れたのは若い男だった。男はうつ伏せになったままのわたしと目が合うと、にこりと微笑んだ。


「XXXXXXX」―――――えっ?


男が笑顔で何かを言いながらわたしに近づいてくる。な、なに言ってるの?
英語でも、中国語でもない言葉に眉を寄せる。え?なに?なんて?恐る恐る硬直する身体を全エネルギーを振り絞って起こせば、言葉が通じていないなんて思ってもいないらしい男は笑顔で次々に言葉を続けていくけれど、何を言っているのか単語ひとつ聞き取れない。男はにこにことしたまま、近くにあった椅子をベッドに引き寄せ、腰かけて話を続ける。ひとまずレイプされる様子ではないことにほっとする。

敵意は、ない、感じ?
そういえばこの人欧米人?


彫の深い顔、濃い眉毛にがっしりとした体格は絶対にアジア人のものじゃなかった。
アメリカ人というよりも、どこかゲルマン民族を連想させる。年はそう変わらない気がするけど、でも、この人、変だ。男が着ている服は、まるで中世を舞台にしたファンタジー映画で見るような恰好をしている。ジーパンではないズボン。Tシャツではない木綿で作られたようなシャツ。靴だって、ナイキやアディダスでは絶対にない。まるで絵本に出てくるような布の靴だ。なにこの人の服のセンス…。まるで絵本に出てくる村人みたい。部屋の中だって、まるで現代の匂いがしない。電化製品の影も見えない。なに、この部屋?

男は一通りしゃべってから、わたしに何か返事を期待するように首を傾げた。



『わ、分からないんです。あの、日本語、大丈夫ですか?』


今度は男が目を丸くする番だった。
男は驚いたように矢継早に何か言い出したけれどちっともわからない。
カラカラに乾いた口内のせいでうまく言葉が出てこない。なに?なんなの?この人日本に住んでいるんじゃないの?何かちょっと位は伝わらない…?

『Can you speak English?』

男はまた目を見開いて、何か言ってくるけどもうぜんっぜん分からない。
え?何語?え?むしろわたしより欧米人のあなたの方が英語喋れるんじゃないの?なに?からかってるの?なんなの?どういうことなの…?えっと、わたしの荷物どこ?なんでわたしこんなところにいるの?部屋を見渡しても、わたしの荷物は見つからない。焦る気持ちがどんどん込みあげて、なりふり構っていられなくなる。男は相変わらず何かを喋りかけてくるけどちっともわからない言葉は言葉というより雑音のように右耳から左耳へと流れていき、どんどん自分の意識が体から離れていくような錯覚に陥る。わたし、なにをしていたんだっけ?家に帰りたい…そうだ…家に帰る。

家に帰ろうとしてたんだ。…帰りたい。家に、帰りたい!





生協で買った今月号のファッション誌がずっしりと肩に食い込んだ。

今月号は好きなブランドのミニポーチがついているのが嬉しくて、つい買ってしまったけれど、家の近くのコンビニまで待てばよかった、と少し後悔する。じゃなきゃ駅まで歩いて向かおうとしなけりゃよかった。
研究室の中はクールビズなんて無視して、パソコンや精密機械のために寒いほどにクーラーが効いた部屋にいたせいか、じんわりと汗を掻くような陽気が少し心地いい。山の中にある大学から街中にある駅までは定期バスが出ていたけれど、もうすぐ夏が来るんだし、水着にもならなきゃいけないし、薄着になるし、という気持ちに後押しされ駅まで歩くことを選んだ。


農業や自然科学を専門にしている学科が多いせいか、大学は地方都市の山の中にあった。
学生はほとんど賃貸の安い山の麓の学生マンションに住み、週末になれば電車で都心まで出るような場所だった。不便には違いなかったけれど、農業を学ぶような学生たちにとっては奇妙に居心地の良い街だった。街全体が大学に依存していた。学生に依存した街は、学生が勉強しやすいカフェや、騒ぎやすいカラオケボックスや、通いやすい居酒屋で溢れ、一人暮らしの若者に向けた店で成り立った街はまるで若さを濃縮したようだった。

そんなこの街の空気を吸いすぎたせいか、わたしは大学四年を終えた今も院生としてずるずると学生をやっている。
早く就職しなきゃなーとか、特別な研究成果を残したわけでもないしなーとか、親に対してぼんやりとした罪悪感をじんわり覚えながらも、それでもまだ若いんだし、なんといっても農業だし、職にあぶれることはないだろうと高をくくっている院生の一人だ。うちの学科はそんな学生で溢れている。下手に文系に進むより、よっぽど就活は楽にいけるだろうと余裕ぶっこいてる。しかも大半の生徒が農家の跡取りのせいか、学校自体がどこかのんびりとしている。わたしみたいに、街育ちで、親がサラリーマンという生徒はどちらかといえば少数派かもしれない。でも、なんの保障もないのになんだかのんびりしているんだから困る。でもそんな時間が嫌いじゃないから困る。


今日は早いうちに大学も出たし、これからちょっと駅前に行って買い物でもしよう。
本当は資料やレジメを持って帰らなきゃいけど、まあ明日でいっか〜。急ぎでもないし。

空を見上げると三時の太陽は、昼間とちっとも変らないほど強い日差しで肌を襲う。宇宙まで透けて見えているようなさっぱりとした青い空に夏が近づいていることを知る。立ち止まって空を見上げると、太陽がやけにキラキラとしているのが見えた。なぜだかその光に心を奪われたようにキラキラと光る空を見つめる。それはどんどん光を濃くしていく。




――――あ、虹が生まれる。



そうして、なんだか意識がゆっくりと遠のいた。