02


「ハイド二ク」


男が自分を指さしてそう言った。
はいどにく、とわたしが同じように繰り返すと、男は何度もうなずいて自分の胸に手を置いて「ハイドニク」と言い、そしてわたしを指さした。名前を聞かれたんだ、と分かり「夢子」と名乗った。ハイドニクが同じように「夢子」と繰り返し、わたしは頷いた。ハイドニクがようやく少し安心したように微笑んだ。まるでターザンだ。ジャングルで出会ったターザンとジェーンが互いの名前を名乗ったワンシーン。全く言葉が通じない中での最初の意思疎通。

でも、この状況は一体なに?


ハイドニクと名乗ったドイツ人のような顔立ちの若い男。
ここは日本のはずなのに、日本語が一切通用しないばかりか、英語だって通じない。しかもなんだか変な恰好をしている。蝋燭の頼りない明かりじゃよく見えないけれど、濃いブラウンの髪に、長身、がっしりと筋肉のついた体。街中を歩いているような普通の男に見える。わたしはなんでこんな人の家にいるの?襲ってくるような様子ではないけれど、まだこの人が信用できるとは限らない。刺激しないように、と早鐘のように打つ心臓を抑え、落ち着いているようにみせるためにゆっくりと息を吐いた。普段は忘れているのに、喉の下で心臓がどくどくと脈打つ音がうるさいし、唇が渇き、指先に力が入らない。


――――――誘拐?拉致?


あんな静かな町でそんなニュース聞いたこともない。
でも、レイプが目的だったら、こんな場所に連れてくるだろうか。確かに大学は田舎にあるけれど、でもわたしが歩いていたのは駅へ向かう大通りで、常に車が通い、人の目がある場所だったはず。あんな大通りで誘拐するなんて考えられないし、誘拐された記憶だってない。ただ、空を見ていただけ。


宇宙まで見えるような真っ青な空。
虹が生まれる瞬間を見ただけ。そうしたら、なんだか意識が遠くなった。
……でも、だからなんだっていうの?



「XXXXXXXXX」


ハイドニクが何かを言って、まるで馬に向かって「どう、どう」とでも言うようにジェスチャーを見せた。
それがここで待っているように、という意味だということは分かったのでおずおずと頷くとハイドニクはにこりと笑って部屋を出ていった。悪い人ではない、のかな?でも、言葉がまるで通じない。部屋やハイドニクの服装だって変だ。なんだか吐き気がする。外に出たい。外に出られたら、あとは自分で帰れるから。大学から随分離れた場所に来ちゃったのかな。道は分からなくても、今は言葉さえ通じたらなんとでもして家に帰れる。ハイドニクが悪い人じゃないのなら、わたしを外に出してくれないだろうか。電話でも借りられたら誰かに電話して迎えに来てもらおう。電話のジェスチャーくらい通じるだろうし。そしたら自分で帰れるから。

家へ帰るから。


ハイドニクはすぐに戻ってきた。
手に持ったプレートには食事が用意されている。パンとスープ、暖かい飲み物。
プレートの上のカップからは湯気が立ち、何かハーブのような鼻に通る匂いがする。あまり嗅いだことのない匂いだと思った。ハイドニクがいかにも親切そうな顔でそれをサイドテーブルに置き、わたしに勧める。とりあえず「Thank you」と言ってみるけれど、ハイドニクはにこにことしたまま。流石にサンキューくらいは通じた…よね?ハイドニクに向かって右手で親指と小指以外を握り、耳に当てて電話のジェスチャーをする。通じないかも、と思いながらも「I want to call to my house」と言ってみる。ハイドニクはきょとんとする。

えっと、電話!電話がほしいの!と焦りながらも、何度も電話のジェスチャーをして、「電話!電話したい!」と言ってみるけどハイドニクは肩をすくめて首を振る。………なんで通じないの?電話は万国共通じゃないの?

ハイドニクがまたわけのわからない言葉で何かを話し掛けてくるけれどちっとも分からない。
自分が知っているありとあらゆる言葉、もちろん片言で「ニーハオ」「オラ!」「ボンジュール!」「アンニョハセヨ」「グーテンターク」「メルハバ」「サワディーカップ」「ナマステ」とありったけの挨拶の言葉を言ってみるけれど、どれひとつ反応はかえってこない。ますます困惑したような顔をして、首を振り、そしてこっちに通じてなんかいないのに自分の言葉で何かを話してくる。

『あのね、わたし、家。帰る。わかりますか?家へ、帰るの。ホーム』

一言一言子供に言うように言うと、ハイドニクは首を傾げたまま。もう無理だ。限界だ。怖い。早く外に出たい!
わたしは立ち上がり、少し驚いた顔をするハイドニクの手を取ってドアへと向かう。ハイドニクが慌てて何かを言ってくるけれどそんなことはもう気にせず、ドアの外へと出る。ドアの外だって窓がない。出口も分からない廊下だ。若い外国人なのに日本で一軒家に住んでいるんだろうか、とちらっと思ったけれど焦ったように早口で何かを話し続けるハイドニクを無視して、がやがとした雑踏のような音が漏れ聞こえるドアを勝手に開けた。ハイドニクが何か叫んだ。


………えっ



街が、広がっている。

街、というより地下街だ。街のあちこちに立つほのかに明るい街頭に照らし出されているのは、街だ。岩肌の露出した天井からは、ここが洞窟のような場所を改造して作られていることが分かった。そこに小さな家々が密集し、生臭いような匂いがする。下水がうまく機能していないんだろうか、汚物や生ものの腐ったような匂いに思わず息を呑む。そして、街を歩く人々の服装はまるでファンタジーゲームのような古臭い、絵本のような恰好。しかも通り過ぎる人々は、どこか健全さというよりもアウトローっぽい雰囲気を身にまとっている。誰ひとりとしてスマホをいじったり、iPodを聴いたりしながら街を歩いている人はいない。蝋燭のみに照らされた薄暗く、生臭い街を、こそこそと、あるいは必要以上に牽制するように仲間とつるみ、足早に通り過ぎていく。ずるずると膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込む。

なに、ここ?


「XXXXXXXXXXX」


頭上から降ってきたハイドニクの声に顔を上げると、ハイドニクがほっとしたような顔でまた何かを言ってくる。
そのハイドニクの服の裾を握りしめ、震える声で叫ぼうとするのに、言葉にならない。

『な、なんなの…なんなのここ?ここどこなの……こんな場所知らない!!』


泣くかもしれない、と思ったけれど顔からは血の気が引いていき、涙のひとつもこぼれない。
ハイドニクがただただ困惑したように、わたしを見下ろしているのもかまわず、その身体にしがみついて同じように叫びながら、頭の中ではありえない、ありえない、と悲鳴のように鳴り続ける。帰れない。きっと、もう帰れない。こんな場所知らない。きっとここは日本じゃない。きっとどこでもない。夢の中だ。夢を見ているんだ。目が覚めたらこんな場所のことキレイさっぱり忘れている。でも今はだめ。今はまだ夢の中にいるから。覚めて!お願い!目覚めて!!――――――――おかあさん!!!



ハイドニクはわたしを元の部屋へと戻して、食事をするように、プレートを指さして、部屋を出ていった。
頭の中が真っ白だ。色んな考えや悲鳴や予想や予感や憶測で埋められて、埋められて、何度も塗りつぶされた重い沈黙。恐る恐るすっかり冷めたスープに手を伸ばし、木のスプーンで一口吸い取って口に含む。味が薄い。水っぽいスープには、わずかなキャベツが沈み、申し訳程度に塩やコショウで味付けされているだけのように感じられた。パンは黒いパンだ。白小麦より安く、粗悪な黒小麦が使われているらしい。もうそれ以上手をつけようという気にはなれず、わたしはそのままベッドに倒れ込んだ。


夢の中。ここは、夢の中に違いないのに。


味が分かる。それに感情だってある。触れるものはまるで本物みたいだし、この肉体は自分の思う通りに動かせる。当たり前の世界みたいに、当たり前に存在している。ただ、当たり前じゃないのはわたしの存在だけ。わたしだけが異物。なに?なんなの、ここ…うそでしょ…。日本じゃ、ない?外国に売り飛ばされた?まさか。だって、そんな、ありえない。そんなの、ありえない。



目を閉じるとすぐに疲労が波のように押し寄せてきた。
この波に沈んでしまえばすぐに眠れる。眠ったら、目が覚めたら、そこはきっとわたしの部屋だ。
明日はゴミの日だから、ちょっと部屋を掃除しよう。それに読まなきゃいけないレジメもあるし、冷蔵庫も空っぽだから買い物もいかないと。そうだ、洗濯物もしよう。あ、柔軟剤切れてたっけ?買い出しにいかないと。大丈夫。間に合うから。そう。大丈夫。大丈夫だから…目が覚めたら、きっと、わたしの部屋だから。

祈りながら、わたしは波に沈んだ。




ハイドニクに付いて、街を移動する。

地下にある街は薄暗く、朝か夜なのかも分からないけれど、昨日外に出た時よりも人の数が多く、女性や子供の姿も見えるから朝にあたる時間なのだろうと思った。ハイドニクはわたしに、まるで中東の女性が被っているような黒いベールを被せたけれど、外を歩く女性はそんな恰好をしていないから、宗教的な理由ではなさそうだった。けれど通り過ぎる人々は顔を見られることを避けるようにフードを深くかぶり、うつむき、足早に通り過ぎるため、わたしのこの異様な恰好だって特に人の目を引くことはない。けれどちらりと盗み見る人々の顔は、みな欧米のものだ。アジア人なんて一人もいない。ハイドニクは、アジア人のわたしの顔を隠すためにベールを被らせたんだろうか。でも一体、なんのために?アジア人だとバレるとまずいことでもあるんだろうか。ここは、日本じゃないの?もし帰宅中に誘拐されたとして、一瞬で海外にまで連れてこられたっていうんだろうか。それにしては体に後遺症だってない。北京まで2時間。アメリカまで12時間のフライト。でも、その間わたしを強制的に眠らせていたとしていたら何か体に変化だってありそうなのに、体はいたって健康だ。


さっき、ハイドニクの家でトイレを借りた。
トイレは、まさか、と思ったけれど、いわゆるぼっとん便所だった。
電気と清潔さに、自分がどれだけ慣れていたかを思い知る。油のようなもので玉虫色にギラギラと光る道を踏み締め、ハイドニクの後を追う。ハイドニクはわたしがちゃんと付いてきていることを心配するように何度も振り返っては、付いているわたしにほっとしたように微笑んだ。ハイドニクはまるでサンタクロースのような大きな麻袋を担ぎ、その欧米人特有の長い足でさっさと歩いていく。わたしを拘束していないということは、敵意はないんだろうか。

目が覚めて、茫然とした。夢じゃ、ない。まだ夢の中?違う。きっと違う。
――――これは、現実だ。


ガタガタと体が震えた。体の中がどんどん冷たくなっていった。泣きたいと思った。
泣いてしまえばきっと楽になれると思ったけれど、頭は思ったよりも冷静で、これから自分が何をどうするべきなのかを案外したたかに考えた。ハイドニクと名乗ったあの男は、そう悪い人には思えなかった。一瞬外に出ただけだったけれど、裕福そうには見えない街の様子の中、わたしに暖かい食事をくれた。それにベッドで寝かせてくれていた。暴力も振るわれていない。映画やドラマの中の誘拐犯の姿とは違う。もしかしたら、どこかで転がっていたわたしを介抱してくれていたのかもしれない。じゃあ、まずはハイドニクに頼るしかない。っていうか、それしか道はない。ここがどこで、どんな場所か、まずはそれを把握しなくっちゃいけない。どうして、を突き止めるはそれからだ。泣いている暇なんてない。


コンコン、とドアがノックされ、通じないと分かっていても『どうぞ』と声を掛けると、ハイドニクが顔を出した。
昨日と同じ服装のハイドニクが親しみを込めたような微笑みをどこかぎこちなく浮かべながら、また食事を持ってきてくれたらしかった。ハイドニクが何か言った。挨拶、かな?ハイドニクが根気よくもう一度、ゆっくりと言った短い言葉を繰り返して言ってみれば、ハイドニクが満面の笑みを浮かべて何度も何度もうなずいた。おはよう、くらいの意味かもしれない。


ハイドニクは遠慮がちにベッドに腰掛けて、ちらりとサイドテーブルに置かれたままになっているほとんど手のつけられていない食事に少し表情を曇らせてから、わたしの両手を取ってオートミールらしいものの入った木の器を持たせる。そして自分の手でスプーンを掬って食べるジェスチャーをして、頷いた。ハイドニクがさっきちらりと見せた表情を思い出して、わたしはオートミールを一口すくって口をつける。うっ、となる。ただでさえ日本人には馴染みのないオートミールだったけれど、どろどろのおかゆのような穀物が臭くて堪らない。スーパーやおしゃれな輸入雑貨の店で売っているような、ドライフルーツがたっぷり入って、蜂蜜やチョコレートで味付けがされて、濃くておいしいミルクで作られたものじゃなかった。古くなった穀物をささやかなお湯でふやかしただけという調理法で、穀物の味の根底にカビ臭さがある。これは、なんなんだろう…。

でもハイドニクは、オートミールに口をつけたわたしに心底嬉しそうに笑って頷いた。

「XXXXX?」

ハイドニクの目が期待するように目を輝かせてわたしを見る。………おいしい?って聞かれているのかな?
ハイドニクがもう一度ゆっくりと尋ねてくる様子と、このシチュエーションに「おいしい?」で間違いないとなんとなく予想して、今までの人生で食べたもの中で一番ひどいそれだけど、でも、わたしはハイドニクの言葉を繰り返した。ハイドニクがますます嬉しそうに笑う。たぶん、合ってた、のかな?

言葉なんてちっとも通じてないのに、ハイドニクはこの「おはよう」と「おいしい」だけが通じただけなのに、もうすっかり嬉しそうにぺらぺらと何かを話し出して、どんどんわたしに食べるように勧めるけれど、これ以上は飲み込めそうになかった。味以上に、まだ心の方がなにかを食べようって気になれなかった。スプーンを置いて首を振れば、ハイドニクが少しだけがっかりした顔をしたのが胸にささった。悪いことしているな、と少し罪悪感を覚えた。やっぱり、悪い人じゃない、と思う。

今はハイドニクを信じよう。