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リーダー格の男性が何かを言って、わたしの両手に熊肉の塊を持たせてくれる。

これは、くれる、のだろうか?とずっしりと重く、僅かに暖かく、私の手の中で体温に交じって脂がじんわり溶ける熊肉から顔を上げて男性を見ると、男性は頷く。少し貰えないだろうかと打算的な事を考えていたので久しぶりの動物性たんぱく質を摂取できそうな気配に思わずごくりと喉が鳴る。


「保存の仕方は分かっとるな?」

聞き取れずに顔を上げる。
男性はまた同じことを聞いてくれたようだけど、わたしにはやっぱり聞き取れない。「ごめんなさい。わからない」と一日に何度も使う定型文を口にすると、サシャが驚いたように目を丸くする。国が違っても驚いた時の表情って通じるんだな、とどこかで冷静に考えながら、この状況をどうすれば良いか必死で考える。その間もサシャが何かを早口でまくし立てる。


「わからんってなんばい!?アンタあたしらの言葉話しとるやないか!あんた言葉も分からんと森のもん横取りするんか?うちらなんでも知っとうばい!あんたこの先の空き小屋に移り住んできたモンやろ?何かしよる人間がおるなってみんな分かっとるんよ?」


どうしよう。なぜかは分からないけれどサシャを怒らせてしまったらしい。


びっくりした気持ちになっているのは本当のことなのに、この場所に来てからすっかり打算的になった自分の頭がものすごい速さで回転し、どうすればその場を収められるか、どうすれば自分に害が及ばないか計算するが、でもわたしの事をまるで知らない、わたしの保護者であり監督者ではない彼らに対してできることが見つけられず、結局もう一度同じ言葉を口にすると、サシャは呆れたように口をつぐみ、周りの男たちも黙り込んでしまった。せっかく共同作業を通して良い雰囲気が生まれていたのに、それが壊れてしまったことで何か怖い事が起こらないか心配で、心臓が喉の下でどくどくと自己主張をする。普段存在だって忘れているくらいなのに、心臓がおっきな塊になって、薄い皮膚を突き破って飛び出してくるような気がする。腕に抱えた熊肉から脂が溶け、血と脂で手がぬるぬるとする。


そういえばさっき、熊のうんこを触ったんだ…頭にも…。



「わたし、あります。家。来るください。お茶にしましょう」


―――家に招待するのは、危険だろうか?


ダリウスが毎日言う定型文だけは、キレイに言えたと思う。
だけどイレギュラーな会話になると、まだなんと文法を作れば良いかわからない。
それより、彼らを連れて帰れれば、ダリウスがなんとかしてくれるだろうか?
彼らは肉を狩猟できるグループのようだから、動物性たんぱく質を摂取するためには、彼らのようなコネが欲しい。
なにより、エルヴィンをボスとするリヴァイ達兵隊の一員や、ダリウスではない、この土地の地元のコミュニティに何か繋がりやコネクション、味方ができれば、それはわたしにとっても選択肢が広がるのではないか。もし、エルヴィン達がわたしを「魔女裁判」にでも掛けることになれば、わたしのこのアジア人顔は明らかに異質。地元の人たちから「好意」を持たれて損はない。


けど、彼らの方が武器の扱いに長けている。
あの家に金目のものはないけども、一掴みの小麦や塩さえ、もしかしたら命を奪われるに値するものかもしれない。この辺りの人たちの経済状況がどういうものか分からないうちに、エルヴィンが用意してくれた、この文明水準においては「不自由のない暮らし」を地元民に見られることは危険じゃないだろうか。
もしわたしが彼らより「よい暮らし」をしていたら、妬まれやしないだろうか
そういった打算や不安を感じている事を表情に出さないようにして、友好的に見られるように口元に笑みを貼り付けて彼らを見守る。
男たちからは敵意は感じない。


でもサシャだけは胡散臭げな顔をして父親の陰からわたしを睨んでいたけれど、わたしにとっては「同性」であるサシャの存在が彼らを招待してみようという賭けに繋がった。まさか娘の前で、わたしに乱暴することはないだろう、という気持ち。なにより、何故かはわからないけれどこの父親は信頼するに値する人だという気がした。


地に足がついている。


そう直感するのは、危険だろうか。ハイドニクの事もある。
だけど、ハイドニクの、怯えた神経質な目とは違う。
サシャの父親の、想像もつかないような生き方、経験を感じる、芯のある目。
熊の肉を迷わず剥いでいく手際の良さ。そこに事態を受け入れ、捌いていく確固たる自信があるような気がした。
彼らは何か相談をし、頷いた。


もう後には戻れない。


















娘が赤い糸を手繰り寄せていくと、どうやらそれが目印になっていたらしく、小屋までの道順となっていた。


小屋と狩をした場所は目と鼻の先だというのに、そういった用心をする知恵のある様子や、陽に焼けてはいても丸みを帯びた頬から流浪の末に勝手に山に住み着いた難民ではない、飢えてはいないらしい育ちにますます訝しむ。ここらで娘は私の娘、サシャくらいだった。長らく無人となっていた小屋に、随分前に人が住み始めたことを知った時はまた街から開拓民がやってきて、私たちには分からぬ言葉で土地を切り売りし、開墾でもしにきたのかと身構え、定期的に様子を探っていた。だが実際そこに住み始めたのは、土など触った事の無さそうな線の細い、神経質そうな、役所仕事でもしていそうな中年の男と、その男には似ても似つかぬ顔立ちをした娘だった。そう、この娘の顔。前を歩く娘の頼りない背中を眺めながら、自分の横を歩くサシャの苛立たしげに張り詰めた横顔と見比べる。サシャは犬ならば鼻っ柱に皺を寄せて毛を逆立てて威嚇するようだが、実際は尻尾を股に挟んで怯えている。


サシャは「外」の人間が嫌いだ。
森で狩った獣の毛皮や肉、熊胆を金に換えるために村へ降りるとき、サシャはむっつり黙り込み、まけてほしさに娘へおべっかを使う商人がいても目すら合わせない。
そのサシャにとっては、この娘などは触るのも恐ろしい異物に違いない。


こんな顔を見るのは、初めてだ。


そう、この娘の、まるで見たことのない顔立ち




何が我々と違っているのか、言葉では説明ができない。
だが少しの茶みも帯びぬまっすぐな黒髪や、低い鼻や平らな額、平面的といおうか、眉や睫毛の密度が低く、頬が丸く、印象の薄い顔立ち……年の頃が分からぬ娘だ。サシャと年は近いのだろうか?いやそれにしては瞳が落ち着いている。言葉に出さなくとも頭の中で多くの事を考えているような知恵を感じる。だが、この娘の言葉の理解度の低さはなんだろうか。街の連中とは言葉が違うが、それにしてもまったく聞き取れている様子がない。


サシャと比べて薄い骨格や肉付きの危うさに、何か病気でも孕んで生まれた娘なのだろうかと、それ故に人目を避けてこんな人家のない森の中で自給自足を始めたのだろうか、と遠目に小屋を監視していた我々は仲間内で話した。出産の折に不幸があると、子が崩れてしまう事がある。程度に差はあれど、そういった場合の子は、低い鼻や華奢な骨格、丸い頬や厚い瞼を持って生まれることが多い。


街では昨年の凶作の時、凶悪犯と共に治る見込みのない病持ちたちが壁外へ放り出されたと噂を耳にした。
例え国からの配給がなくなったとしても、行方をくらませ、人家のない森で時給自足の生活をするに十分な理由だ。
私とてサシャが…と考えると同じ事をするだろう。


この娘が庭というには上等な言葉すぎるだろうか、小屋の前に畑を作り出す様子を見たことがあった、崩れた子も田畑をいじるくらいのことはできると聞いたことがあった。


この娘も、そういった不幸を背負っているのかと思っていたが、顔立ちや言葉の遅れを除けば知能に問題があるようには見えなかった。目の焦点はしっかりとし、むしろサシャよりも肝が座っているような様子さえある。
この娘が不幸を背負っていたのではないのだとすれば、一体この娘の顔はなんだ?
今のところ我々にとって脅威である様子はないが、この小屋の二人に支援者がいることも分かっている。




調査兵団だ



調査兵団の連中がこの娘たちの家財道具を馬で運ぶのを仲間が見ている。
憲兵ならともかく、壁外で巨人相手に無謀な立ち回りをする連中がなぜこんな内地に入り込み、引っ越しの手伝いなどをするのか。団員の身内だとしても、兵団が何頭も馬を率いて引っ越しをするなど聞いたことがない。馬の足の細さや鞍の高さからそれが農耕馬ではなく、壁外調査をする為のサラブレッドだと分かっていた。そんな上等の馬を何頭も率いてくるだろうか


この娘の素性を確かめる必要がある




小屋はもう目の前だった。



※注意※
作中ダウン症を表現する言葉として適切でない表現があると思います。
中世の西欧の人々の目からどのように見えていたのか。ダウン症という名称以前は1960年代まで「蒙古症」という医学名であった事をベースに、その時代の医学のレベルや、人々の異人種への理解度を示すために作中で表現しています。100年も昔ではなく、ほんのひと世代前までは、胎児の体内での発生時障害としてアジア人のレベルで発生が止まった、と考える人がいたこと。西欧人にとっては、ダウン症の方の顔立ちがアジア人に見えていたこと。

進撃世界、閉ざされたダウパー村のサシャの父親と、調査兵団として壁外の人類の痕跡や歴史を調査するエルウィン達とは違う情報を持って生活している事を伝えられるよう、丁寧に表現して行きたいと思います