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一喝された。


まさにそんな風に一言怒鳴られ、驚いてその子をまじまじと見る。女の子だった。
長い髪をポニーテールにし、手に弓矢を持っている。さっきわたしの頭上を飛んで行ったのは、この子が放った一矢だと分かった。女の子はどこか南米の先住民族を思わせるような長いスカートに、ポンチョのようなものを着て、ブーツを履いている。歯をむき出しにして仁王立ちでわたしを見下ろしている。後ろには熊が倒れている。無防備なのはわたしの方なのに、どうしてだか女の子の目が脅えたように瞳孔が開き、震えている。


「サシャ」


…サシャ?
カウボーイハットのような帽子をかぶって、ベストのように加工された毛皮を着た男の人が言葉を掛けた。STOPだろうか、名前だろうか。とにかくその単語を掛けられ、女の子は唇を結んで大きく鼻息を吐いて、キッと鋭い瞳でわたしをひと睨みして、声を掛けた男の人のそばへと移動する。父親だろうか。
よく見ると瞳がどことなく似ている。



「あんたこン辺の村の娘っ子か」



聞き取れなかった。でも敵意はなさそうで、わたしはよく分からず頷いた。
何を聞かれたんだろう。シチュエーション的には「大丈夫か」とかそんな所だろうか。
ぼんやりしていると思われたのか手が差し伸べられる。その手を掴んで立ち上がろうと手を差し出して、自分の手にべったりと熊のうんこが付いている事に気づいて慌てて手を引っ込めてエプロンスカートで糞を拭い、「ありがとう」と言葉にして自分で立ち上がった。立ち上がった瞬間、足の血の気が引いていてふらふらするのを感じる。心臓がまだうるさい。口から飛び出しそうだ。


この父親らしき男性がチームのリーダーなのか、ぼんやりするわたしを他所にほかの三人の男の人たちと、女の子に何か指示をしていく。すると彼らはわたしには目もくれずに手際よく熊の毛皮をはいでいく。ゼミの講習の課外活動で、北海道に行ったときのことを思い出した。害獣として駆除されたイノシシの解体を見学したことがあったので、悲鳴を上げたり脅えたりすることはなく、むしろその毛皮があっという間に剥がされて、肛門から腹を捌いて内臓が引きずり出されるのを見て、その無駄のない手際に自分が落ち着いていくのを感じた。


そして、彼らが全員で熊の血抜きに集中している間、わたしは冷静に次の行動を考えることができた。

この人たちは、この森の猟師たちだろう。

でも犬も連れずに狩をするなんて、日本のマタギとは違うらしい。それに装備が貧弱だと感じられた。
エルヴィンやリヴァイが「兵隊」のような組織の人間だったとして、確かに彼らも「銃」は装備していなかった。でもそれは王立軍のような名誉職ならば銃ではなく剣を装備するのだろうか、と考えていたけれど、現場で生きる彼らだって銃を持たず、弓矢と短剣のようなものを腰にぶら下げているのを見るとこの時代に「銃」はまだ開発されていないのだろうか。日本の種子島に銃が入って来るのは、戦国時代頃だっけ?なら15世紀には銃があったはず。じゃあこの時代は15世紀以前だろうか。それとも彼らがたまたま銃を装備していないだけだろうか。銃は民衆には広まっていないんだろうか。

だめだ、今ここで結論はでない。それより…

―――問題は、わたし、だ。


彼らはこの、どっからどう見てもアジア人顔のわたしを見てどう思うだろうか。彼らは世界地図についてどれくらいの知識があるだろうか。異教徒、異民族へどんな思想を持った人々だろうか。

わたしを、売るだろうか

男たちと女の子が言葉少なに作業をするのを、見つめる。
振り返ると小屋からのぼっていた煙が消えている。ダリウスが火を消したのだろう。
わたしはこのまま“おいとま”させて頂こうかしら、と思案するも、命を助けられたと思うとその場を動いて良いか分からない。彼らの猟師としての圧倒的な存在感と組織力がその場を支配して、不思議と足が動かない。



リーダー格の男がこちらを振り返り、わたしを手招きする。
ピンクの内臓が引きずり出された熊は、熊だった面影はなく、巨大な肉塊のようになってしまっている。
ここまで綺麗に解体されると、グロテスクを通り越して、新鮮な肉塊を目にした本能で「おいしそうだ」と思ってしまう。商業施設のステーキ屋さんで保冷のショーケースに入っていた大げさなほどに大きな肉塊を思い出す。そういえば、そんなお肉、もうずっと食べてないな…。


リーダー格の男がわたしに血まみれのナイフを差し出す。
ぎょっとしてしまったのも一瞬で、これは、わたしにも「やれ」という事なのだろうと理解して、袖をまくって、覚悟を決めて、赤血球が凝固し始め、糊のようににちゃにちゃとするナイフの柄を掴んで男の隣に腰を下ろす。男が短く何か指示を出してくれたけれど、習っていない単語なのか聞き取ることはできず、それでも男が指で筋肉組織をなぞってくれたのでここにナイフを入れるのだろうと思ってその通りにする。鶏や和牛と違い、熊の筋肉量は比べ物にならない。筋肉はタイヤを切っているかと思わせるように固く、刃が通らず膝立ちになって力で肉を解体しようとすると、隣にしゃがんでいた女の子が何かを吐き捨てるように呟き、リーダー格の男が窘めるようにまた「サシャ」と言う。これは、名前だろうか、と考えながら悪戦苦闘をしていると、リーダー格の男がわたしの背後に膝立ちになって、二人羽織のようになってわたしの手を掴み、ナイフを滑らせる。するとさっきまでタイヤのようだった筋肉組織にずっとナイフが入りやすくなる。筋肉と筋肉の流れの間に刃を入れてくれたらしい。

血まみれになったわたしの手を、男の血まみれの大きな手が握りしめるけれど、不快感はなかった。


リヴァイの手を思い出す。


訳の分からない牢屋から助けてくれて、ベッドに寝かされていた時のこと。
涙を堪えるわたしの額に置いてくれたリヴァイの手。昔付き合った男の子たちの、誰も持っていない掌をしていた、リヴァイの手。何度もできては潰れた肉刺のせいかすっかり硬くなった皮膚がささくれだち、柔らかな額に触れた時かすかな痛みを覚えたほどの厚い掌の皮。わたしの額の体温と溶けて混ざった、熱い掌。
ペンとスマホを持つ男の子たちの持っていない、リヴァイだけの掌。

今までどんな生き方をしてきたんだろう。

この人も、リヴァイのような手をしている。
ここは、自分の力で生きていく世界なんだ。





迂闊かもしれない。軽率かもしれない。
でも、この人たちは信用できる人たちだと思った。


「ありがとう」

熊を肉塊へと切り分けながら、自然とわたしの口からそう零れ出ていた。
視界の隅で女の子が驚いたようにわたしを見たのが分かった。まだぎこちないけれど、筋の切り方をなんとなく分かってきたせいもあって、わたしの口元には自然と笑みが浮かぶ。奇妙な安心感があるのは、自分のサラリーマンの父親とは比べ物にならないくらいワイルドな人だけど、でも、わたしの手をしっかり握りこむこの人に父性を感じるからだろうか。

「わたしは、夢子です」

女の子の目がますます丸くなって、息を呑むのを視界の隅でとらえる。
女の子は気まずそうに視線を逸らして、呟く。


「私はサシャ、デス」


よかった。名前だった。サシャ、か。
その不思議に涼やかな、風のような名前は、この子にとてもよく似合っていると思った。