夢子が部屋に入ってきた瞬間の強張った表情を見た瞬間、なにか面倒なことが起こったのだろうと思った。その次の瞬間、彼女の後ろからぞろぞろと現れた現地民たちの姿を見たとき、息を飲んだ。
ついにこの時が来た。
夢子が、外界の人間に接触した。
ごめんなさい、というように夢子が目で黙礼をした。聡い子だ、と思った。その一瞬の夢子からの瞼の動きに、私も軽く頷き、客人をもてなす為に笑みを作った。
ーーーー共犯者だ。
「これは珍しい。我が家にお客さんですね」
かつて、気が遠くなるような昔、実際にはほんの数年前、貴族の館で働いていた時の笑みを浮かべる。善良で非力な知識層の笑みだ。その後貧民窟の裏通りで違法製造の酒を手に入れる為に覚えた笑顔は、また、違う笑みだった。だがとりあえず、男たちは私の笑みに警戒をといた。男という生き物は腕力で勝てると思った相手に対して無意識に警戒を解く。彼らの武器は背負っている弓と、腰から下げたナイフだけ、か。だが捲られたシャツから見える雄の腕の強さに、彼らであればその腕っぷしだけでこんな私のような男も、夢子も殺すことができるだろう。
「すまんが水を使わせてもらえんか。さっきそこで熊の処理ばしたんや」
現地民の首領格らしい男が手を見せると、それは黒く変色し始めた血で汚れている。それで何故夢子と一緒にいることになったのか、何故夢子が肩身の狭そうな顔をしているのか大体の理由を把握し、私は殊更怯えたような声で「熊ですか」と震えて見せて、井戸の場所へと案内をした。
井戸は、夢子が改造をしたものとなっていた。
夢子自身が創意工夫をし、拾ってきた枝を麻糸で編み、蓋を作っていた。元からあった木蓋は劣化し、穴が開いていたので、夢子は自身で編んだ枝を下に敷き、重石代わりに木蓋を置いていた。そうする事で落ち葉や虫の死骸をいくらか防いだ。側にある盥には貴重なシャツを裂いて覆いかぶさるように蓋をしている。夢子はそこへ井戸水を注ぎ、堆肥していたゴミを除去してから、更にその水を沸騰させ、蒸留水を飲料水とした。
夢子の水への警戒心は病的なほどだったが、現地民の男たちは桶から汲んだ水をそのままにザバザバと手の汚れを落とし、顔を洗って口を濯いだ。夢子もそれに習うように、自身の手を洗い、頭に水をかけて洗髪するように髪の汚れを落としていた。
夢子は清潔な娘だった。
入浴、の習慣があるらしい。農婦とて洗髪をするが、彼女ほど頻繁に行うことはない。彼女は毎晩、もちろん覗いたことはないが、部屋に湯を運んで体を拭いている様子だった。夢子の体への意識は、農婦や町娘というより、貴族階級の娘の潔癖さに近いように思われた。彼女は必ず手を洗い、口を濯ぐ何かを食した後はすぐに口腔清掃を行う。時には指に岩塩をつけて歯茎を磨いている。その習慣のせいなのだろうか、会話の中で時折その小さな口から見える彼女の歯は、一本足りとも抜け落ちることなく、綺麗に並んでいる。
そうして男たちも水を使う中、その輪の中に一人、娘がいたことにようやく気が付いた。
さきほども部屋に入ることもなく外で待機していたのか、首領格の男に呼ばれてようやく自身も汚れた手を洗った。だがその様子の慌ただしさや、一瞥もくれる事がなく、怒ったような怯えたような表情をし、水を掛けてスカートで拭っただけという様子に、彼女の警戒心の強さを見た。首領格の男は、どうやら父親だったらしい。よく見れば額の丸みや目の印象、薄い唇に血縁が見て取れた。
父親は半ば呆れたようにそんな娘を見やってから我々の様子を遠巻きに見ながら髪を絞っていた夢子へと視線を移し、皮布に包まれたものを私へと持たせた。それはずっしりと重く、僅かに湿りを帯びている。
「あン娘にも手伝ってもろた。分け前を貰う権利がある」
皮布をめくると、それは赤い肉をいっそ卑猥なほどに光らせた上等の肉だった。こんな新鮮な肉は市井では出回らないものだ。顔を上げると父親は頷いた。
「保存の仕方はわかるか?」
「塩漬けにするくらいなら…」
「いや熊は塩漬けにすると野生の筋肉質が硬くなりすぎて食い物にはならん。丁度まだ向こうに残りの肉を転がしたままにしとる。あんたが運搬を手伝ってくれるんならすでに燻製にしたものがあるから分け前をやる」
断れる理由はなかった。
エルヴィン団長との手紙の往信は続いていたが、これから冬を迎えるこの土地での生活に向けての備えがない。団長は冬のために綿の入った寝具や衣類を届けてくれる事を書いていたが、風の噂でまた調査兵団の出兵があると耳にしていた。村里の住人の調査兵団への態度は冷ややかで、調査兵団という大飯食らいの税金浪費を馬鹿に仕切っていた。
団長が壁外調査で死亡でもすれば、この夢子という最大の謎を解き明かすどころか、資金の打ち切りにでもあえば、いくら秘密があろうとただの大人2人、食い扶持を失って路頭に転がるだけだった。
そんな中、調査兵団に頼らず得られる食料などはいくらあっても足りない。
頷いた私を見てすぐに父親はテキパキと指示を出し、部下らしき男らを動かした。男たちのうちひとりは彼らの根城へ戻って移送用の馬を取りに行き、私と夢子、父親、娘の4人で向かうこととなった。夢子は終始落ち着いたように、時々彼女が見せる卑屈にも感じるような「友好」さを演技するような笑みをうっすらと口もとに貼り付けている。この場に馴染んでいる、敵意はない、と殊更主張するかのように、目を細めて口角を持ち上げている。私が男たちに見せた笑みのように、彼女も彼女で演技をするような笑みの種類をいくつか持っているようだった。
だがそういった笑みを浮かべる時の夢子は、普段よりもずっと「何を考えているか分からない」状態になる。言葉を学ばせているときは、あの単語やこの文法、この応用が思い出せないのだろうなと察することができる。だが薄っぺらい笑みを貼り付けた時、夢子の心の扉は閉じられ、彼女特有の高い知能と思考の中に潜り込んで何か思案しているように見える。このリーダー格の男には「出産時に難があった」と伝えたが、夢子に高い知能があると知られれば何か厄介なことにはならないだろうか。
都に住む人々の中でも知識層階級の中には、この世界が壁に閉ざされる以前、世界には多様な民族がいたことを薄々知っている者たちもいるが、庶民はそうではない。ましてやこんな壁側に最も近いような土地の人々が、異民族を理解することができるのだろうか。この若い娘は夢子を露骨に警戒するそぶりを見せている。敵対視しているようだ。何が恐慌のきっかけになるかは分からない。
「未知の存在」は、恐怖になりうる。
案内された場所では、まだ他に部下がいたのか、二十歳を過ぎたかどうかという若者が他の獣に喰い散らかされないよう見張をするように立ち、その傍に転がっていたのは、すっかり毛皮を剥がれ、解体された肉塊だった。
「ンなら肉ば解体していくぞ」
父親はそう言い、あれこれと指示を出して手慣れた様子でその場を取り仕切った。
男たちから敵意は感じない。だが、親しみもない。この場を効率よく収めるための人手だとしか感じられない。夢子にとっては高度な言葉のやりとりだっただろうが、父親が辛抱強く身振り手振りて夢子にナイフを持たせ、解体をさせていく。自分の父親が夢子の手を握って骨切りをさせているのを、娘は苦々しい顔をして横目に睨みながら、淡々と慣れた手つきで肉を剥がし、部位ごとに切り分けていく。そうこうしているうちに仲間がやってきたのか、男達が幌のなく、ずいぶん使い込まれた荷馬車を引いてやってきた。馬は調査兵団が乗るような足の細いサラブレッドではなく、農耕馬らしくずんぐりと大きく、短く太い脚はむしろ牛に近いのではと思われた。その馬が首俵に弾き鎖を繋げられて車を引いてきた。
男達が手際よく油紙を引いた車の上に解体した肉を並べるのに習い、夢子も同じように熊肉を乗せて行った。夢子だけではないが、皆血と脂に塗れて酷い有様で、女の出産に似た大量の血や尿の臭いが強烈に漂っている。
以前貴族の子弟に付き合って狩りへ行った時は酷かった。
甘やかされて育った残忍な息子が興味本位でハンターが狩った熊を銃剣で弄んだところ、大腸だか胆汁だかを破いたらしくあたり一帯は酷い悪臭だった。
だがここの男達は違った。
皆が一言二言のやり取りだけで仕事を理解し、それぞれがテキパキと最善の不法で解体して行った肉は、始めは少々グロテスクな有様だったのが、小分けの肉の塊になっていくと段々食欲を覚えるような様子になっていく。
そうした作業を全て終え、最後に熊の毛皮を荷馬車に乗せると父親が話しかけてきた。
「今日は随分手間取った。村まで戻って往復すンには遅い。明日迎えをやるから、村まで取りに来てくれンか。足労掛ける分礼ば弾む。あんたらがどういうモンか、ワシらも興味がある。茶でも飲みながら少し話そうや」
包み隠さず腹の中を告げられ、わずかに身構える。
だがそれを見越したように、男は首を振って続けた。
「いや大体の事ば勝手にこっちでも勝手に検討しちゅうんや。街じゃキチガイだ病だいうモンに食わせるモンばないいうて死なせとる言うやないか。あン娘は普通じゃなかと?それでこの森さ逃げてきたんやろ」
私は黙った。沈黙は都合の良い憶測を呼んでくれることをよくわかっていた。
「いや、だからと言って別に何か要求するがある訳やない。むしろワシは、自分の娘、サシャの事を思ってアンタらと接触ばしたいんや」
「娘さんの?」
小声になった男に習って小声で聞き返すと、男は頷き、チラリと横目で娘を確認した。
サシャという娘はすっかりこちらに背を向け、馬のハミの調子を確認する作業をしているようだったが、その背中が緊張し、こちらへ神経を向けていることはよく分かった。全身で警戒をしている。
「あン娘は、この森の外の世界を知らん。いやわしに付いて近くの村へ物々交換や多少の買い出しだのに付き合う事はさせるが、あの調子だ。村のモンも生臭(なまぐさ)を扱うワシらを露骨に馬鹿にするモンもいる。村の娘らは、サシャのナリを見て陰口もいう。だがワシはサシャに、広い世界を知り、生きる選択肢ば増やしてもらいたいと思う取る。あんたは村の連中と違って農民じゃなかったとやろ。街の人間だ。なんぞ娘に教育してほしいんや」
そこまで聞いて鼻白んだ。
父親の懸念は理にかなっている。
夢子の教育だけで手一杯であり、これから冬へ向けてますます日常の仕事は増える。が、しかし、これは千載一遇の機会かもしれない。人家の多い村では目立ちすぎるし、街への繋がりを持つ者もいるだろう。しかし、彼らのような少数グループで、狩人達というアンタッチャブルな一族ならば後腐れがないかもしれない。間違っても中央の政治家や貴族連中が相手にすることもないだろう。
ならばサシャは夢子よりも幾分歳若いが、夢子も同じ女を相手に勉強をすれば得る体験が増えるのではないだろうか。私一人を相手にしていては、生活も会話様式もすっかりパターン化してしまっている。もっと多様な会話を、女性同士の会話や、環境、語彙が必要だ。
変化が必要だ。
「そういう事なら喜んで。ただ娘はご覧の通り、体は健康ですが、頭の方は少し…。会話する力も五歳児のようなものなので、お嬢さんには不快な思いをさせてしまうかもしれませんが、それでも良ければ」
「そうは思えん。会話に問題があっても、あん娘は聡明ばい」
普段ならばここで握手でもするだろうが、互いに血に塗れた手を見せて頷き合った。
だが私は内心で息を呑んだ。この父親は、人を見る目がある。
いつまでも夢子が憐れな子供だと偽ることはできない。いや、すでに見抜いている。
接触させるのは危険だろうか。
だが、夢子に変化を与えなくては