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肉の分け前は、どうやらサシャの父親が何かしらの処理をしてくれることになった様子だった。
サシャ達はそう早口でしゃべっている訳では無いけれど、ダリウスやリヴァイたちの話す言葉よりもずっと聞き取るのが難しくて、わたしが意思疎通をとるのは困難だった。

方言だろうか。
それとも社会階層で話す言葉が違っているんだろうか。

わたしが今関わりを持っているエルヴィンを中心とした組織と、サシャたちとでは着ているものの素材が違う。
エルヴィンの家は都会的で、21世紀を生きるわたしにも理解できる地続きの生活文明を感じたけれど、サシャたちのコミュニティはより土着的な、民族的コミュニティに見える。

武士言葉が生まれたのはテレビのない時代、同じ日本に住んでいても、たとえば東北地方と京では話される言葉が全く違っている中、定住を半ば義務付けられた農民とは違い、戦があれば日本列島を北へ南へ移動し、同盟を結んで離れた土地者同士が敵味方となって言葉を交わす武士達が意思疎通を取るための共通言語として生まれたものこそ「武士言葉」だとか聞いた事がある。

エルヴィン達の揃いの装束や装備は、わたしが連想する中世の騎士の甲冑や鉄面のようなものとはちょっと違うようだけど、組織としては「警察」や「憲兵」「軍隊」のようなものだろうな、と思う。だから今、わたしが習っているのは武士言葉のように、エルヴィンたちのような職業的地位の人たちが話すような言語なんじゃないだろうか、と思い至る。
だからサシャたちのような地元民の話す言葉は方言のようなもので、エルヴィンの組織が手配してくれた教師であるダリウスとは違う言葉なのかもしれない。だからサシャたちの話す言葉がちっとも聞き取れないんじゃないだろうか…。
しかしだとしたら特権階級である武士言葉を、どう見てもアジア人の顔をした異人のわたしが話している事は、地元民にとって高圧的に受け取られる事は無いだろうか、と考えると簡単に会話を口に出すのが憚られる。


「気に食わねぇガイジン」になってしまうと、コミュニティから排除されないだろうか、と不安になる。
サシャの父親は芯のある人のようだけれど、全員がそうだとは限らない。
ここがどういう時代かわからないけれど、「部外者」への偏見と差別の恐ろしさは常に頭に置いておいた方がいい気がする。
だから、わたしは口元に無害で無力な若い娘らしい笑みを浮かべておく。
この世界での「会話相手」が限定されてしまっているから会話がワンパターンになっているせいかもしれないけれど、でも随分ダリウスと意思疎通ができるようになってきたと思っている。もしかしたら、生活を共にする中で相手が何を欲しているのか、動物的な共感力と想像力の方が発達してしまったのかもしれないけれど…。



そうやってちょっと自信喪失と共に自分を慰めてもいた間に、ダリウスとサシャの父親の間で何かが決まったらしい。
ダリウスと、わたしの立ち位置について何か打ち合わせでもできたら良かったのだけど、ダリウスは父親…このグループのボスと何かを話し込んでいて会話に立ち入る隙がない。でもダリウスはニコニコと営業スマイルを貼り付けているが、リーダーの立ち居振る舞いからも特別な警戒や緊張感はなさそうで、社交的な中年男性と、少し厳格でぶっきらぼうな男性が街で立ち話でもしているような様子なので、ひとまずわたしは心を落ち着かせる。


────馬車から引きずり降ろされ、連れて行かれた先で、処刑されるところだった。
思い出すだけで指先からスゥー…と体温が消え、足元の感覚がなくなり、喉の下で心臓が大きく膨らむ。息ができない。


でも、リヴァイが来てくれた。
リヴァイが、来てくれたんだ。


心の底から安堵した。安堵なんて曖昧でぼんやりした音の言葉じゃない。
もっと強烈にわたしの身体を突き抜けていった閃光のような、あの光。


────あの時とは状況が違う。

見知らぬ人たちに囲まれているけれど、わたしは一人じゃない。
あの時来てくれたリヴァイが連れてきたダリウスがいる。きっとリヴァイが信用しているダリウスがいる。大丈夫。大丈夫。────大丈夫。
そうやって自己暗示をかけているとどんどん身体も落ち着き、心臓は元の大きさに戻り、大人しくいつも通りに動いていて、だけどそれに比例するようにわたしの頭はどんどんクリアに硬質になっていくような気がした。口元にはわたしは友好的で、無力な存在です、庇護が必要な存在です、と主張するためのアルカイックスマイルを自然と浮かべているけれど、心なしか目だけは力が入って、瞳孔が開いている気がする。

興奮しているんだ。———新しい出会い、に。

だがそうやって微笑んでいるわたしを、サシャが遠巻きに睨んでいるのが見えた。
サシャだけはわたしの計算高い腹の中を見透かしているような気がして、胸が苦しくなる。


いつから自分はこんなにも狡猾になったのだろう。
どうして能天気な女の子のままでいられなかったのだろう。
そうだったら、サシャに無邪気に話し掛けられただろうか。



ダリウスとサシャの父親はそれから二言、三言やりとりをした後、解体された熊肉を乗せた荷馬車と共に去っていった。
父親はわたし達に片手をあげて別れの挨拶をしてくれたけれど、サシャは決して一度も振り返る事なく足早に去っていった。
完全に彼らの姿が見えなくなり、すっかり帰る場所となった家に帰りつき、手を洗う。乾き始めた熊の血と脂で手がニチャニチャと不愉快だ。いくら井戸水で洗っても血が完璧に落ちることがない。殺菌効果のある石鹸が欲しくてたまらなくなる。欲しいものばかりでたまらない。あの肉だって欲しかった。あさましくてたまらない。無事に彼らが立ち去った安堵なのか、自分のあさましさへの苛立ちなのか、暖炉から灰を一掴み掴んで、井戸先で灰と共に力強く手を洗う。灰に含まれるアルカリが血液のタンパク質や脂の脂肪酸に反応して想像以上に手の汚れがよく落ちる。

この森で暮らすようになってから、灰にはお世話になりっぱなしだ。
洗濯、手洗い、歯磨き…みんな灰を使っている。大学で土壌の研究をしていた頃の知識が少しは役に立った…。でも例えば天体が読める人だったら空の星から自分の座標を見て、ここが何時代のどの場所か分かったのかな…。史学科だったら……。いや、学部のことを考えるのはもうやめよう。不毛すぎる。


ダリウスは自問をかき消すように手を洗うわたしを後ろから眺めながら、自分は布で手を拭くだけだったので、同じように灰での手洗いを身振りで伝えると素直に従っていた。そういえば、ヨーロッパでは手術前の手洗いの習慣というのは結構近代になってから生まれて、それまでは血も布で拭くくらいだったんだっけ。日本だと鼻紙は昔からあったけれど、ヨーロッパだとハンカチで鼻を噛んでいたくらいなので布や衛生への意識が少し違っているのかもしれない。
立ち上がると、森の木々が影絵のように黒く覆い被さり、夕闇の気配が立ち込めていた。暗くなれば電気をつければ事足りる生活を知っている身に、真の闇夜の暮らしは辛い。空を見上げれば一等星が輝き始めている。自然に肺から息が漏れた。漏れたと同時に、肩の力が抜ける。汗が冷える。


今日はいろんなことがあった。
本当に、いろんなことがあった。
でも、乗り切った。

生きながらえた。








リヴァイはエルヴィンに許可をとり、夢子から押収した書物を眺めていた。
手に持つとやや重く、ツルツルとした質感の表紙には自分が知っている「絵」の定義とは結びつかないほど精巧な女が描かれている。またその女の顔も、リヴァイは見たこともない顔立ちだ。────夢子を除いて。

書物の表紙一枚見ただけで混乱させられる。この本の紙の素材も分からなければ、製本技術さえわからない。
ただ女の化粧や服装の事ばかりが描かれているようだが、それすらも意味がわからない、見たことがないものばかりで混乱させられる。

リヴァイは「混乱」は好きではない。

たとえ一見混乱状態にあり、真実がカオスに隠されていようとも、全てに道筋だった理由があり、それを見つけて相手を出し抜くことができる。「混乱」と他人が考えているものでも、リヴァイにとっては「混乱」でない。それは常に世の中を一歩遠巻きに、用心深く注視して生きてきた目と知恵が答えをくれるからだ。だから夢子はリヴァイにとって真の「混乱」だった。


エルヴィンは何度も食い入るように眺めてはハンジと共に文字の規則性について話し合い、夢子が小屋で書き残すメモをダリウスが複写し、こまめに報告してくる手紙と共に、この書物の解読を試みている。他にも何か植物の専門書のようなものもあったが、この女ばかり描かれている書物の方が絵の精巧さもあって助けになるかと思ったが解読は難航している。例えば文末には同じ文字が度々出てくるだとか、文頭の単語の種類とか、文字の規則性や多少の法則は分かってきている。だが「意味」は分からない。あくまで文字を絵として捉えたときの法則が見えてきただけだ。
夢子が風景を切り取った小さな板はもちろんのこと、彼女が身につけていた衣類の素材も把握できない。
縫製は極めて複雑かつ、糸の動きは人間が手で行ったとは思えぬほど統一され、規則的だ。ボタンも貝や木製、動物の角とは思えぬ素材で、いや布を染めた顔料さえ分からない。何一つ分からない。


日常生活を送っていても、書類仕事をすれば紙質や筆記具から夢子の持っていた物を思い出し、彼女のことを考えてしまう。
壁外への調査の前に、人類が欲する「答え」がすぐそこにいるのではないか。


指の一本や二本折ってやれば自分が何者なのか、これが全て超絶技巧を駆使して手の込んだジョークなのか、狂人の妄言なのか、全て話すだろうか。
そこまで考えて、あの小屋で、茶を入れていた夢子の細い指が、脳裏を過ぎる。うさぎを締めた時のようなパキッと乾いた簡単な音を立てて折れそうな指だ。だが夢子の精神はどうだろうか。エルヴィンが念入りに計画した処刑ショーにだってボロを出すことはなかった。あれは強靭な精神力のなせる演技なのか、それとも本当にどこか全く別次元のこの書物の世界のような場所から現れたとでもいうんだろうか。


分からない。
全てが分からない。


書物から解読をするのがエルヴィンとハンジの仕事なのだとすれば、リヴァイは「実地」の人だった。
夢子本人を監視観察すればいい。学者に任せていたんじゃ埒が明かない。あの学者は夢子をすっかり研究対象と見ている。あれじゃ生涯をかけて研究するなんて言い出しかねない。調査兵団はそんな悠長なことは言っていられない。2ヶ月後にはまた出兵計画があるのだ。表向きは華々しい人類の挑戦「壁外調査」だが、実際は食物の高騰に伴い、壁外調査と並行して壁外に安定的な食料になる自然資源がないか調査する必要もでている。
だがそこで木の実を見つけたとして、一体何人の部下が死ぬのか。
他人から得る情報じゃない。
自分の足を運び、目と耳で判断する。


────今までだってそうしてきた。




書物を閉じたリヴァイが椅子から立ち上がったと同時に部屋にエルヴィンが入ってきた。
リヴァイが手に持っている夢子の書物をチラッと見やり、なんとも言えない笑みをうっすらと口元に浮かべる。悔しさと、妬み、自嘲、馬鹿馬鹿しさ、その全てが混ざった薄い笑みだ。命を賭け、また多くの部下の命を預かり、失ってきたエルヴィンにとっても夢子の書物の世界を見ると毒気に当たったようになってしまう。だからこの書物はペトラやオルオなどの性根の純粋な部下たちには見せていなかった。
リヴァイはそんなエルヴィンの笑みを流し、彼の胸に夢子の書物を押し付けた。

「しばらく休暇を取りたい」
「珍しいな。また産地に馬の調達か?」
「夢子のところへ行く」

逢瀬か、とおどける者は誰もいなかった。
リヴァイがエルヴィンの笑みを理解したように、エルヴィンもまたリヴァイの性質を理解していた。
意外に我慢が効かないのだ、この男は。


「戻ったら報告しろ」


エルヴィンの声は硬質で、だがどこか楽し気だった。
意外に我慢が効かないのだ、この男も。