02

艶やかな桃色をした蓮の花浮かぶ池。
蓮の花はいくつも重なり、連なり、しかし全ての天上の花がそうであるように、確かな生命としての形を持つものではなかった。蓮の花たちは僅かに輪郭が揺れるように霞み、一所にあるものではなく、常に花弁の大きさをわずかに変え、空気の中に溶け込み、ふくらみ、その様はまるで桃色のもやのように広がっていた。
その蓮の花を、池を、いやその先に見える下界に生きる人間たちを見下ろす影が一人。



観世音菩薩
右から見れば、その横顔は女性的な顔立ちをしているが、左側から見れば精悍な若者のような顔立ちをしている。観世音菩薩は女でもあり、男でもあった。雌雄同体。完全な存在だった。
ここでは普段観世音菩薩が好む西域風の女形の服装を取って、彼女、と呼ぶ。



彼女は、下界を見通していた。
美しい桃色の靄の先には、彼女の心が取るままに下界の人間たちの生活が透けて見えている。天上人の中には、人間界の出来事を見通すことは気が滅入るものだから、と寄り付かぬ者も多い池だ。天地開闢てんちかいびゃく以来、支配する人間が変わろうとも繰り返される事は決まり切っており、人間界の出来事というものは、永遠の命を持つ天上人達にとっては既に飽き飽きとした見世物になっている。
なにより神も、日々それぞれに定められた役割があり、人間を眺めて暮らすなどはよほど酔狂なことだった。



神にとって、人間とは、神の雛形を持って作られた憐れな生き物。
人間とは、動物や魚、植物を殺し、その死骸を食らう不浄な生き物。
その人間を愛でる観世音菩薩は、天上界でも変わり者の一人に数えられていた。



その彼女の瞳は、桃源郷の片隅にあるちいさな村に落ちている。
この村の人間たちの天命が書き換えられた、と閻魔は天帝に苦言を訴えていたが、天帝は訴えを取り下げていた。たかが二十人足らずの人間の天命が変わったところで、天命変更の事務処理をする間にどうせ死ぬ。放っておいて差し支えない。
天界とは実にお役所仕事なところだった。



「観世音菩薩、あの村は…」


老いた声色の中に焦りを滲ませるような声に、観音は目もやらずに頷いた。二郎神だ。
気が遠くなるほどの時間を共にしている観音は、全てを言われずとも彼の言いたい事は分かっていて、そして、それはまさに彼女が見定めようとするものであった。


「ああ、鈴麗の転生した村だ」
「天帝は、その事にお気づきになっているのでしょうか」
「アレだってそう馬鹿じゃない。握り潰しておいた方が、面倒がないから捨て置いているだけだろう。“今の”天帝は焔の“従兄弟”だ。身内が異端の存在である上に、人間の天命まで書き換えたなんてスキャンダルは聞きたくないんだろう」


既に閻魔の訴えは天帝が握り潰していたので、このスキャンダルを知る者は天界でも上層部のごく一部だった。それでも、焔が人間の何人かの寿命を僅かに伸ばしたところで、何も変わらない。結局死ぬのだから。
天界人にとって、午後の陽だまりの中で、うつらうつらと白河夜船を漕ぐ中で、その人間たちも死んでいるだろうから、天界人にとって焔のしたことは「異端の存在が無駄なことをする」と失笑を買っただけに過ぎなかった。



「しかし、人は子を作ります。一人の天命が変わるという事は、水面に小石を投げるように広がっていくこと。今日生き延びた者が、“本来は”残す筈のなかった子孫を増やせば、その子孫の中に高名な君子が現れ国を作るやもしれないし、兵を興して王を殺す簒奪者が生まれるやもしれない。一人の人間が天命を変えるということは、ひいては人の世の流れ、その全てを変えることなのではないでしょうか」
「その“本来”ってやつは、誰が決めたんだ?」



振り返り、自分を射抜く目を見て二郎神はぐっと言葉に詰まった。
月のない夜のように深い青色をした瞳には、爛々と輝く光があった。その光に射抜かれ、二郎神は知らずと漏れた溜息が、これから起こるであろう疲労に対するものだったのか、それとも安堵の溜息だったのか、自分でも分からずにいた。しかし、久しぶりに見る、その光を、好ましく思った。



「たかが神の決定だろ」



嗚呼、またそんな危険な目をなさって…
…いや、そうだ。このお方は、こうでなくては―――





天界は、激動を切り抜けたところだった。


天帝の死、天帝城の崩壊、李塔天の反逆
それらは千年の平安に浸りきっていた天界にとって、天変地異のごとく衝撃を与え、天地創造以来の混乱となって天上人たちに降りかかっていた。天界上層部は、天帝の死という異例の事態に、崩壊するかと思われた天界の秩序を保つため、早急に新しい天帝が決められた。それは数々の神託や、選考、政治的判断や気の遠くなるほどの慣例を検証し、選ばれたのは、若い天帝であった。

そして、闘神という異端の神を決めるにあたり、天帝の一族外の人間に権力を持たせ、第二の李塔天を生む事を恐れた天帝派閥の上層部によって、満場一致で、新たな闘神は決められた。



それが、焔だ。



焔は、天帝一族の女と、人間の男との間に生まれた異端の存在。
天帝の一族であっても、異端であるというのは、あつらえたように都合がよかった。
闘神となり、軍部で権力を持とうとしても、長く幽閉されていた焔に後ろ盾はない。
異端の存在として何の政治的根回しもできない焔に、権力が集中することはない。
仮に闘神として支持を得たとしても、天帝の一族の威光という事にすることは容易い。



――――なにより、焔は死ぬ。
権力を得たとしても、この男に流れる人間の血が、焔を殺す。天界の邪魔はしない。
焔が死ぬ頃には、天界も落ち着きを取り戻すであろう、そうなれば、また次の闘神を探すだけ。



そういった上層部の思惑もあり、焔が選ばれた。
そして、闘神に更なる禁忌の子を持たせるわけにはいかぬと、幽閉処分であった鈴麗は、突如として人間界への転生刑が課せられた。それは、未来永劫、死を輪廻する重い刑罰であった。



そして、闘神太子 焔が生まれた。



天界の混乱とは裏腹に、速やかに決められた焔の処遇だったが、しかし混乱は収まってはいなかった。
焔はその混乱の中、厳重に管理されていた閻魔による天命帳を盗み見ることで、鈴麗の転生した先を突き止め、薬師如来から薬を一掴み持ち出していた。だがそれでも、盗まれた薬が、千人力の力を与えるとか、不老長寿を与えるものというような厄介な薬ではなく、あと数百年もすれば人間界でも開発されるであろう流感インフルエンザの薬であったので、血気盛んな閻魔とは対照的に、草原のように穏やかな薬師如来は事を荒立てることもせずに「困りましたねぇ」とほほ笑むだけだった。その実は、ただ事務処理が面倒だったかもしれない。神はみな、鷹揚なのが常だった。



観世音菩薩が、蓮の池から下界を眺めると、すでに下界では幾年かの年月が流れていた。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、ってな」
口元に楽し気に笑みを浮かべる観世音菩薩の言葉通り、下界での“時”は川のように常に流れ、流れて変化している。下界が川ならば、天界は池だった。海のように満ちることも引くこともなく、ただそこに穏やかに存在し続けながら、淀んでいく美しい池。それを思うとき、彼女は、甥のことを考える。淀みの中を抜け出し、激流に飛んだ甥のことを。



「見ろ、二郎神。異端と禁忌の象徴が、“カミサマ”だとよ」



言われるがままに蓮池をのぞき込むと、鈴麗が転生した村が見えた。
あれから何年か過ぎたのか、焔が鈴麗の生まれ変わりとなった赤子を抱いていた広間にあった木が成長している。そして、その広間につくられた石碑を見て思わず胃が痛むのを覚えて、今度は間違いなくストレスからくる溜息を洩らした。
あぁ、大医王薬師如来に私も薬を調合してもらいたい、と内心で愚痴る。



「まったく!すっかり神の秘薬伝説の地になっているではありませんか!」
「まぁ、薬師の貯蔵から盗まれたんだから、神の秘薬も秘薬、一級品には違いないからな。あれほどの秘薬は長安にだってないだろうな」
「そこではありません!焔を祀るような村があっては、今後天界にどのような影響があるか…」




観音は座っていた足を組み替え、顎をついてほほ笑んだ。
ほほ笑む、というにはあまりに剣呑な色を孕んでいる。だがそれは、たまらなく美しい横顔だ。


「見届けるしかないのさ。それが例えどんな結末になろうとも」