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海に続く階段





 海の匂いがした気がして、リムは目を覚ました。
 町長が提供してくれた、広めの離れは宵闇に包まれている。開け放った窓から煌々と満月の光が差し込み、殺風景な食堂のテーブルや壁を蒼く染め上げていた。ぐうぐうと高いびきをかいて床で寝ている者、酒瓶を握りしめたまま机に突っ伏している者、勝手に運び入れた長椅子で寝ている者。寝室に戻った者もいるようだ。リムは体を軋ませながら凭れていた椅子から立ち上がった。
 奥のロッキンチェアで、足を組んだイポスが帽子を顔に被せてゆらゆら揺れながら眠っている。
「団長まで雑魚寝したのか…」
 羽目を外しすぎだ、とリムは顔をしかめる。机にそっと置いた眼鏡を掛けると、頑丈な仲間達を見回して溜息をついた。床には、空いた酒瓶の他に、誰かがひっくり返したつまみの皿も転がっている。夜が明けたら、身支度の前にまず掃除からだ。
 今回、魔獅子傭兵団が依頼を受けた町は王都に繋がる街道沿いにある宿場町で、凶暴化した幻獣の退治が主だった。大がかりな別件に団の手勢の多くを割いた後の仕事で、団員たちの休養期間との兼ね合いもあって、手勢としては少なめだった。向こうの案件はナンとフレイザが指揮を執っている。こちらの方はリム一人でもこなせそうだったが、傭兵団が拠点にしている町に戻る途中、迂回したイポスが立ち寄ってくれた。
 イポスは傭兵団の中でも図抜けて強い。凶暴化した幻獣の一体や二体を倒すなら、朝飯前だ。団長が来たことで仕事が早く上がると期待して、どことなくダレていた団員たちは気合いを入れ直した。良い町だが、やはり田舎である。けばけばしい娼館もなく酒場の猥雑さも物足りない。素朴で長閑な生活空間は、血なまぐさく時に享楽的な傭兵には居たたまれない。
 戦場の臭いと垢抜けた街の空気を纏うイポスの出で立ちは、団員たちの気持ちを無駄に浮き立たせ、唐突に宴会が始まった。明朝、山寄りの牧草地付近に出向くのに、とリムは苦い顔をしたが、数日ぶりに見たイポスの、出会った時から変わらぬ精悍な面差しと洒脱な佇まいに、気が抜けてしまったのも確かだった。
 イポスは、帽子の羽根飾りとブーツの留め金を新調していた。死に装束をまた新しくしたイポスに、リムの胸は何故か気ぜわしく騒いだ。
 リムは宴の間、イポスと喋らなかった。
「なに、こんな仕事はどうってことない。いつも通りにしてればな」
 まだ戦績に不安の残るある団員が、酔ったせいか弱気に溢すのを聞いたイポスは、隣に座り、肩を抱いて、果敢と無謀の違いを、引き際の肝心さを、腕の立つ先輩格の団員がいかに守り支えてくれるのかを、経験に基づいた力強い言葉と磊落な声で語り聞かせた。緊張が解れたのか、宴の終盤、その新人が一番気炎を上げて、一番に寝落ちた。気合いの入った新人が健やかに酔いつぶれたのを見て、イポスは慈しみとも愉快とも違う、奇妙に深い眼差しで「そうそう、その意気だ」と独りごちた。
(団長は時々、新人にああいう目をする。未だにどう喩えたらいいか解らないが、優しさ……ではない気がするな)
 リムの知見では、あの目に似た動物が浮かんでこない。なので、イポス独特の眼差しだと受け止めていた。自分が団に来たときも、あんな目で眺めていたのだろうかと思うと、面白くないような、それで良かったような、中途半端な喜びが過ぎる。あんな目で見られていた自分が、今こうして右腕として控える立場にいる事への奇妙な達成感がある。してやったぞ、という感慨。
 だが、それすらイポスは帽子の蔭で目を細めて「そうだ、そうだ」と笑っていそうに思える。
 戦場であんなにも確かな存在感で、傭兵団をまとめ上げひとつの志向性を持たせるイポスの、茫洋とした掴み所なさを、リムは未だに上手く受け止められない。
 例えば、今。ロッキンチェアで揺られながら居眠っている男の、寛いだ態度を。帽子の下に寝顔を隠す癖を。昨夜、誰より笑っていたのに誰よりも素面でいたことを。
 夜明けにはまだ一眠りできる時間がある。酔いつぶれ、しんどそうな態勢や場所で熟睡する仲間たちは起こさないように足音を忍ばせつつ、リムはイポスに近付いていった。
 やはり、海の気配がした。海辺の町で嗅ぐ空気よりもっと、海そのもの──海中で呼吸するような匂いが漂っている。耳に、体に寄せるさざ波の音が聞こえてきそうだ。
「団長」
 そっと呼びかけると、口の中からこぽりと泡が立ち上った。陸にいながら海底を歩く足取りで、ゆらゆらと波打つロッキンチェアに近付く。息苦しさはないが、寄せ波引き波に足元を掬われて上手く歩けない。まだ酔っているのだろうか、とリムは自問自答した。酔いは醒めている。足取りが覚束ない感じはない。ただ、ふわり、ふわりと体が潮の流れに揺られている。
 こぽ、こぽぽ、と息を吐きつつ、リムはロッキンチェアの縁を掴んだ。少しも息苦しくないが、直立するのが難しかったのだ。
 波間からイポスを起こして、二階の寝室に向かわせなければ。一応、団長なのだ。夜明けの一眠りまで清潔なベッドで眠って欲しかった、ちゃんと、人間らしく。
 帽子に手を伸ばそうとして、羽根飾りがふわふわと揺らいでいるのに気付く。近付いた自分の呼吸のせいか、見えない波濤のせいか、リムにはもう解らなかった。相変わらず派手で、美しい。鳥が生きていた頃より美しいかもしれない羽。帽子に止めるピンにも意匠が凝らしてある。イポスの美意識は、ただ派手なだけでなく、繊細でもある。今回の稼ぎが、この羽ピンひとつと釣り合うのだろうかとリムはにわかに心配になる。
「団長、起きて下さい。ベッドがあるんで、そっちで寝てもらえませんか」
 囁きかけると、すう、と海面の水位が下がった。引いていく潮のただ中に立ち尽くしている時の、全身を砂地に引き込まれる重力を感じる。リムはロッキンチェアを握りしめ、引き潮の力に抗った。
 椅子がゆっくりと揺れる。
「……ん…」
 帽子の下でくぐもった声がしてから、軽々と持ち上げられた片手が帽子を取る。イポスがくあぁ…と欠伸をして、目を開いた。
「あーあ、居眠っちまった。もう朝か?」
「いえ。二階にベッドがあるので、そっちで寝て下さい。迂回路を来てて疲れてるんでしょう」
「お、悪いな。じゃあ、上でもう一眠りしてくるか」
 揺れる椅子から立ち上がる、所作に酒宴の痕跡など微塵もない。狭い階段を上がっていくイポスに、リムは声を掛けた。
「団長、海辺に寄りました?」
「ん?……いいや。でも海の夢は見ていたな」
 ふと懐かしげな笑みを浮かべたイポスは、帽子に手をやってリムを顧みた。
「お前も、波が気持ち良かったろう?」
 そう問い掛け、答えを待たずに踵を鳴らして二階に上がってしまう。少しして、部屋のドアを閉める音が聞こえた。
 蒼い光に揺れる食堂に佇んだまま、階上を見上げる。深呼吸してみたが、もう口から泡が立ち上る感覚はなかった。だが、イポスの寝室を開けた途端、高波が自分を飲み込んで引き返せなくなってしまうのだろう。
 リムは海に続く階段を見つめていたが、首を短く振って歩み寄り、階に手をかけた。




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