のろのろと開いた瞳は白い光に驚いて完全に瞼を開けることを躊躇した。酷く身体が重く、節々が痛い。それよりも右の脇腹が少し身じろぐだけで引き攣ったような痛みが走る。意識はまだまどろみの中にあり、視界も安定しない。しかし、不思議と気持ち悪さはなかった。穏やかな、目覚め。まだ完全に開き切っていない目を何とか光に慣らそうと、重いそれを何度か瞬かせる。それを繰り返していたとき、大きな、温かい何かが額も含めて彼女の双眸を覆った。
「寝すぎだ、ボケ」
少し掠れた、溜息と共に吐き出されたその声に偲月は無意識のうちに身体が反応するのを感じた。視界は完全にその手で覆われているため、光すらも感じず、何も見ることが出来ない。けれど、この手の温かさを、私は知っている。
「ユウ?」
言葉を発するのがひどく久しぶりな気がする。その証拠に声を出した瞬間喉の奥がカラっと鳴った。渇いた口内に唾液が分泌され、それを何となく感じていたらピリッとした痛みが走った。表情を微かに歪ました偲月に気づいたのか、神田の目は険しいものに変わる。
「暫く喋るな。…舌、結構深く切れてんだと」
そういえばずっと舌を噛んでいたなと、ヒリヒリする痛みに慣れようと努めていた偲月はぼんやりと思った。痛そうに口元を歪めた偲月を見やり、神田は口を開いた。
「お前、死ぬ気だったのか?」
喋るなと言っておきながら質問するのはどうかと自分でも思った。けれど、これだけは聞いておきたかった。偲月の口元を伝うのは吐血のそれだけかと思っていた。しかし実際は舌からも大量の血が流れていると気づいたのは教団に着く前だったか、それとも後だったか。治療をした医療班に、噛み切ろうとしたのか、その舌は偲月しかつけることの出来ない歯型がくっきりと残っていたと聞かされたときには。背筋が、凍った。
依然視界を封じられたままだったが、偲月は神田が怒っているとその声音やその雰囲気から気づいていた。やっぱり怒ってる・と、いつかと同じように心の内で少し笑った。そして、ゆっくり首を横に振る。
「意識が、飛びそうで…寝ちゃダメだと思って、ずっと噛んでた」
そうさせてくれたのは、突然響いた貴方の声。ユウが寝るなって言ったからそうしたんだ・と伝えたかったが、上手く呂律が回らなかったのでそれは致し方なく飲み込んだ。暫しの後、頭上で息を吐く気配がし、それによって彼が纏っていた雰囲気が柔らかくなるのを肌で感じた。
喋ったら怒られる。本能的にそう悟っていたけれども、偲月は渇いた唇を言葉を紡ぐためにゆっくりと動かし始めた。
「死ぬかと思ったら、すごく恐かった」
一番恐いのは、死ぬこと。誰かの命が消えること。それが昔から恐くて恐くて仕方がない。
けれどいざ自分がその瞬間に陥ったとき、恐い恐いと叫び震え上がる人間としての本能よりも、負けてはダメだというエクソシストとしての正義の方がほんの少しだけ勝り、泣きはせずともただ敵を睨むことしか出来なかった。だから一度目が覚め、彼の姿を見た瞬間どうしようもない感情が溢れて気がついたら彼に縋って泣いていた。今もう一度泣けと言われても、泣き方がわからない。きっと、あの行動は正義が押し殺していた本能が爆発した瞬間だったのだろう。
「でもね…」
けれど、自分があのとき一番恐れていたことは何かを自分は知っている。ずっと、心の底で呼んでいた。助けて欲しいと呼んでいたわけではない。どうか無事でと、叫んでいた。
「もうユウに逢えないかと思ったら、そっちの方が、恐かった…」
言い切った瞬間、頬に何かが伝う。それが涙だと分かったのは、彼が泣くなと小さく呟いたからだった。前髪が軽く払われ、額を撫でられる感触がした。ひどく安心できる、その体温。
「…よく、頑張ったな」
優しい声音で言われたその言葉の意味を理解するのに数秒要した。呆然とその意味を働こうとしない頭の中で咀嚼して考えていると、覆われていた掌が外され再び光と対面した。薄ら徐々に戻ってくる視力をもってその方向に目を向けると、黙って自分を見下ろす彼と目が合った。
笑ってはいない。けれどそれはお互い様だ。
力の入らない、すっかり筋肉の落ちた腕を動かし彼の方へと手を伸ばす。偲月の意図に気づいて神田は先ほどまで彼女の瞳を覆っていた手を彼女へと差し出した。弱弱しい力で、しかししっかりと存在を確認するかのように掴まれた右の人差し指から、彼女の戻りかけている体温が伝わる。
「もう、大丈夫だ」
その言葉に、偲月は目を細め、笑みを呼ばれるそれを浮かべた。
・・・
カチャリとステッキが鳴る音がした。その音に、机の上に座り両足をブラブラと揺すっていたロードは顔を上げる。
「お帰りティッキー」
「ああ、ただいま」
薄暗い部屋に灯るランプの明り。電気を点ければ良いのにと、ティキはシルクハットとステッキを傍に控えたメイド(額にはペンタクルのあるAKUMAなのだが)に預ける。椅子ではなく机に座っている家族の姿に溜息を吐き、そんなところに座るんじゃねぇよと軽く嗜めた。が、彼女がティキの言うことを聞くはずもなく。どうでも良いよと言わんばかりにそこから飛び降り、ティキの方まで駆けてきた。
「何処行ってたの?エクソシスト狩り?」
「まあそんなところ?でも狩ってはないよ。今日はイノセンス狩り」
「へぇ〜?」
ロードの意味深な視線を無視し、ティキは椅子を引いてそこに腰掛ける。するとロードもとことこと足音を立てて今度はきちんと椅子に座った。
「でもその割にはAKUMAを自爆させたり?生まれたてのAKUMAが進化するよう助けたりしてたよね〜?それからエクソシスト逃がしちゃったし!」
煙草を咥えようとしていたティキは、彼女のその言葉に思わずそれを取り落としかけた。その様子に、ロードは声を上げて笑う。
「ちょ!お前なんでそれ知ってんの!?」
「ティッキーには教えな〜い」
ケラケラと笑い続けて、ねーレロ!と、傘に相槌を求める家族を、ティキは驚愕に満ちた目で見つめていた。確かに今回の行動は千年公からの直接命令でもないし、ただ白い時期が長く続いていたので暇つぶしに動いただけであった。暇つぶしの上に、気紛れを要所要所で起こした。イノセンスは破壊したものの、エクソシストにとどめをささなかったことがバレれば後々千年公に嫌味を言われるかもしれない。イノセンスを破壊したことは報告してもエクソシストをみすみす見逃したことは秘密にしておこうと思っていた。なのに何故ロードが知っているのだ。それにロードが知っているとなれば…。
そんなことを思っていたら、その考えを読んだのか。ロードが大丈夫だよーと声を上げる。
「千年公には言ってないよー。女神様には教えてあげたけどねー?」
「嘘、あいつ知ってるわけ?」
「全部教えちゃったー!」
ご愁傷様ーと笑うロードを軽く小突くと、暴力反対ー!と罵られた。相手にし出すと切りがないので、この辺りで構うのを止めておく。ティキはやれやれと溜息を吐きながら席を立った。
「あれティッキーどこいくのー?女神様のところー?」
「先に千年公に報告な。女神様のところはまた後で」
女神様ご機嫌ななめだよー?と言うロードに、お前のせいだと苦笑しながら言い、そのままティキは部屋を出た。コツコツと自分の足音が響く薄暗い廊下を歩きながら、ティキは機嫌を損ねた女神様をどう宥めようかと考えつつ、あの小さなエクソシストを思い出していた。
虫の息で瀕死の重傷を負っているにも関わらず、最後まで目の力を失っていなかったエクソシスト。彼女がイノセンスを発動させて、自分の中の何かを探っていたのは知っていた。けれど彼女が一体何をしようとして、何が原因で血を吐き倒れ伏したのかはティキに知る術はなかった。
けれど、興味は湧いた。
「面白いねぇ、エクソシストは…」
咥えた煙草の煙を吐き出しながら呟かれたその声は、誰にも聞かれることなくそのまま煙と共に消え溶けた。