血にまみれて全く動かない彼女の身体をかき抱いて、飛び込んだ街の病院では手の施しようがないと言われた。動かさない方が良いとわかっていながらも、半ば無理やりに最新鋭の設備と技術を誇る医療班がいる教団へと戻った。
その教団の医療班にまで命の保証はないと言われ、そのまま眠り続けて一週間。目を覚ました偲月は神田の姿を見つけた瞬間、まだ動けるはずがない身体を動かして彼に縋って泣いた。声を上げて、ただ、泣いた。神田は様々な感情が入り乱れる胸の内を必死に押し隠し、その小さな身体を強く抱きしめた。
・・・
「ノアの遺伝子に触れたその衝撃で、イノセンスの力が体内で爆発した・か」
小さく呟かれたコムイの言葉に、別の任務から帰還したラビが悲痛な面持ちでスクリーンに映し出されるその映像に目をやった。ゴーレムには映像を記録する機能が搭載されている。偲月がノアと遭遇し、あの瀕死の状態になるまでの一部始終を鮮明な映像と音とで振り返った彼等は、複雑な色の混じった息を吐き出した。目を逸らしたくなるその惨劇。あの小さな身体でこれほどの傷を受けたのだ。身体面だけではなく、精神面でも。彼女にとって嘗てないほど大きく痛いものだったに違いない。
「偲月は?」
「峠は越した。もう命に別状はないよ」
コムイの答えに、ラビは今度は安堵の混じった息を吐き出す。一時は生死の境を彷徨った。まだ油断は出来ぬ状況だと知ってはいるが、最も危険なときから脱出したのであればそれは何よりも喜ばしく胸を撫で下ろすことができる。
エンドレスに流れ続けるその映像。まだアンノウンと称されるほど正体不明なノアの存在が明らかになっている唯一の記録だ。何かノアに関しての情報がそこから見つかるかもしれない。それを目的としてここ数日流されている映像を、ただ無言で見ている“彼”に、ラビは物言いたげな視線を投げた。
自分達のように悲痛な、また何か手がかりを探すようなそれではなく。その表情は、その瞳は。誰もが近寄り触れることをためらうほどの怒気をはらんでいた。
「ユウ、少し休んだ方がいいさ。ずっと寝てないんだろ?」
壁にもたれてその映像を見ていた神田は、ラビに声を掛けられたにも関わらず、彼に視線を向けようとはしない。その視線はずっと同じ方向、スクリーンへと向いている。
「ユウ帰ってきてからずっと偲月のところかここにいるさ。少しは飯食ったり休んだりしねぇと…」
「そんな気分じゃねぇよ」
静かな声が響く。しかしその反面、静か過ぎるそれはラビの身体を震えさせるには十分なもので。一瞬臆したラビだったが、神田が偲月を連れて帰還したのはちょうど一週間前だと聞いた。それからずっと神田は偲月の傍についているか、こうして科学班と共にゴーレムの記録映像を見ているだけしかしていない。全く、睡眠も食事もとっていないのだ。それでは偲月だけでなく、神田も倒れてしまう。
「ユウ…」
「コムイ。宿を襲ったAKUMAの異変も、あのガキと同じようにノアが操っていたと考えた方がいいのか?」
ラビの声を意図的に遮り、神田はコムイに問いかけた。それにコムイは何か物言いたげな視線を投げるが、それを飲み込み彼の問いに答えた。
「多分、ね。そう考えていいと思うよ。ノアの…伯爵側の目的が何なのかはわからないけど」
「その目的が偲月だったとしたら?」
敢えてコムイが曖昧な表現をしたにも関わらず、ラビがその核心部分に触れた。それは先ほど自分の言葉を無視されたことに対する反抗心もあったのかもしれない。しかし、それは誰もが可能性として頭の中でちらついていた事実。だが誰もが認めたくなくて、それを自分の中で否定し続けていたのだ。周知の事実だとわかっていても。
そこを、敢えてラビが切り開いた。
嫌な、妙に張り詰めた空気が部屋に漂う。ラビの視線は真っ直ぐに神田へと向けられている。神田の鋭い視線がそれに合わせられるが、ラビは数分前のように引こうとはしない。受け止めろ、とでも言わんようなそれ。コムイはこんな状態でもどこか冷静な目で、睨み合っている少年ふたりを見守っていた。
先にそれを外したのは、神田だった。
「そうだとしたら、偲月を狙う奴総てをぶっ殺すだけだ」
静か過ぎるその声音は、その空間に深く浸透した。言い捨て神田は部屋から出て行き、扉が大きな音を立てて閉まった。残された彼等は、今度は肺の中に溜まった複雑な感情を含んだ息の総て吐き出し、閉まったっきり全く開こうとしない扉を痛そうな視線で見つめた。
・・・
妙な胸騒ぎがする中、神田は走り続けていた。AKUMAの集団を何とか破壊し、少女を連れて逃げた偲月の後を追う。彼女が何処へ向かったのかはわからない。その手がかりは雪に残る真新しい足跡だけ。けれど、何故かそれを見ずとも偲月がどの方向にいるのかが直感的にわかっていた。
どれくらい走ったかわからない。先ほどの戦闘で神田自身酷くはないものの怪我を負っていた。人より回復力が早いとはいえ、痛みは他の人と変わらない。それを堪えながらも走り続け、たどり着いたその空間。
はじめ、目に入った色は黒だった。それは身なりこそ人間だが、その只ならぬ気配からただの人間とは違うと本能的に悟った。そう悟るまでの時間はコンマ数秒。次いで、彼がその色を見つけるまでもそれと同じくらい時間はかからなかった。
白の中に浮かぶ、赤。
それが一体何なのか理解するのに更にコンマ数秒。そして微かに銀灰色が目に飛び込んできた瞬間、自分の中で感情が爆発した。
その後のことはほとんど覚えていない。ただ、ノアが去り、そのまま目を閉じて動かなくなった偲月の傷に愕然とし、どんどん冷たくなっていく身体を抱きしめて来た道を走ったことだけ記憶に刻み込まれている。
司令室を出たときとは全く違う、音さえ立てずにその部屋の扉を開いた。“絶対安静”と言い渡され、峠を越えたとはいえ未だ油断の許さぬ状況で処置を受けている偲月は、一度目覚めたきりずっと眠っている。
その一度だけ目覚めた偲月は、声を上げて泣いたのだ。
出逢ってから一度も、声を上げて泣いたことがない。どんなに痛くとも辛くとも、その灰色の瞳に涙を溜めても、それだけは零さなかった偲月が、自分に縋って声を上げて泣いた。
どれだけ痛かったか。どれだけ、恐かったか。
想像を絶する。
眠る偲月の頬は、白さこそ戻ってきているもののまだ薄い赤みすらない。頬に残る涙の跡は彼女の傷口から流れ出た血のようで。神田は目を細め、彼女の頬を撫でる。
「絶対許さねぇ…!」
あのノアの姿を誰が忘れるものか。永延と流される記録映像に映るあの男の姿は、もう神田の瞳に焼き付いて目を閉じても消えようとはしなかった。
彼の目、表情、その総てが。
鋭い刃物のように研ぎ澄まされ、怒りに震えていた。