後悔なく生きたい
人間一度本当に死にかけたら、ほんの一瞬の間でも走馬灯だって見るし、本当に叶えたいことを叶えてきたのかなとか、やりたいことを後回しにして気づいたらもう手が届かなくなってしまっていたとか、長い人生と言ってもその人生がいつ終わるかなんてわからないのだからと、色々考えてしまった。というか、冷静に考える時が来たのだなと、私はベッドに横たわったままぼんやりと、しかしクリアになった頭の中でそう思っていた。
忘れもしない、2018年10月31日、渋谷。
この日起こった惨劇を私は一生忘れないし、よくあの状況から生きて戻れたと今でも思う。今後一生自分にとって不利になる縛りを結んでまで私は戦って、七海と生き延びた。本当に、よく、生きて帰って来れた。高専では手に負えない物理的な怪我を負っていたので高専と提携している病院に入院中の身だとしても、生きていることが不思議なくらい、私はあの時何度も死にかけた。
呪詛師に刺されたとき。自分に反転術式を使わないという縛りを課して七海を助けに行ったとき。七海とともに渋谷を脱出した直後。呪力は何度も空っぽになっていたし、呪詛師に刺された傷だって硝子先輩の反転術式をもってしてもすぐには治らないようなものだった。時間が経っていたせいもあって、結局病院に入院、手術という、周りを心配させることをやらかした。周りと言ってもその筆頭が七海なのだけれども。
「起きてましたか」
病室の扉が開き、反射的にそちらを向けば七海がそこには立っていた。同じくらい…いや、七海の方が重症だと思われたのだが、普段から鍛え方が違うのか七海はさっさと現場復帰している。今は渋谷の後始末やら、新しい呪詛師との戦いなどで高専周りは混乱の最中にあると聞いている。そんな中、こうしてのんびり寝ている私は歯痒さしかなくて、余計なことばかり考えてしまっているのだろうけど。
「大分傷も癒えてきたのかな。昨日より痛くないんだよ」
身体を起こして七海に両手を差し出せば、何を意図しているのかすぐ汲んでくれて、彼はぎゅうっと、しかし優しく抱きしめてくれた。私は渋谷での一件のあと、一日に何度かこうして七海の体温を感じたくて仕方がなくなった。というより、そうしないといけないと思うくらい、あの時は七海が逝ってしまうと思って怖かった。温かいその体温に抱かれることで、お互いこうして生きていることを実感する。ほぅ、と彼の胸の中で息を吐いて、ありがとう・とその身体を離した。
「家入さんがこちらの担当医の方と話したと。あなた、ぼちぼち退院できるみたいですよ」
「ほんと?」
「まあ、しばらくは絶対安静ですが」
当たり前だろう、と少し呆れたように言ってくる七海に、まあそうかと私は落胆の溜め息を吐いた。本当は今すぐにでも身体が動くならみんなと一緒に戦いたかったし、硝子先輩の手伝いだってしたい。幸い、縛りのおかげで呪力量が増えたことで他者に対する反転術式の精度は上がっている、と思う。まだ七海でしか試してないのでわからないけれど。あんなに火傷でひどいことになっていた七海を五体満足にまで癒すことができたのだ。人の助けになる、自分にできることを一生懸命やるという意味では万々歳な効果だ。
「七海、今日は任務だったの?」
「残党処理レベルのものだった。怪我もしていないから反転術式を試そうとするな」
こちらの目論見はバレていたようだ。さすが、長年一緒にいるだけある。まあ、怪我がないのが一番なんだけれど。
「あのね、七海」
七海は持って来た花束を花瓶に入れて飾ってくれていた。窓を少し開けた病室には少し冷やっこい風が入ってきて、その場の空気が澄んでいく。どうかしましたか、と視線は自分の手元に置いたまま、七海は言葉を返してくれる。ずっと病室で考えていたことがある。お互い死にかけたことで、色々思うことはあったと思う。だからそれはちゃんと話さないといけない。
「退院したらさ、割と真剣に話したいことあるんだよね」
ぴくりと七海の纏っていた雰囲気が変わった。こちらを振り返りながら、訝しむように眉を顰める。
「別れ話なら却下ですよ」
「は?別れるわけないじゃん」
突拍子のない七海の言葉を全面的に即否定して(なんで離婚話だと思ったんだ)、違うよと彼を安心させるために少し笑って手招きする。花を活けた七海はベッドサイドに置かれた丸椅子に座った。訝しそうな表情はそのままに。
「生きている間にやりたいこと、叶えたいこと、お互い吐き出してさ。できることから順番に実現させていきたいんだ」
七海と一緒に。
そう告げると、彼は目を丸くしてこちらを凝視してきた。そんなに驚く内容だったかな?と思いながらも言葉を続ける。ずっと考えていたから、するすると言葉は音になってくれた。
「今回本当に死ぬと思ったじゃない?したいこととか叶えたいこと、全部できてないし、七海も言えてないことあるだろうなって。クアンタンに移住したいってあの時はじめて私に言ったでしょう?」
呪霊の群れを祓いながら、ふたりで何をしたいか話したとき。彼がそう言ったのだ。いつか物価の安い国に移住したいとは言っていたけれど、具体的な場所や海辺に家を建てるなんて話、私だって初耳だったのだ。だからきっと、お互い腹の中に隠している夢がたくさんあるはず。それを残したまま呪術師を続けたら、悔いがありすぎる死を迎えてしまう。だから、ひとつずつ潰していって、悔いのない死を迎えられるようにしたい。…私の願いは、悔いを増やしてしまうものかもしれないけれど。それでも、七海と叶えたいことがたくさんあるのだ。
「だからさ、私が退院したら話そうよ。やりたいこと、叶えたいことリスト作ってさ。七海お得意のタスク管理で優先順つけてさ。ね?」
それが今私の一番やりたいことなんだよね、と彼の目を見て言えば、七海は、何を言い出すかと思えば…と少し呆れたように笑った。
「もちろんです。楓が退院して、ちゃんと座って話せるだけの体力が戻った頃に家族会議をしましょう」
「あは、いいね、家族会議。第一回七海家家族会議だね」
結婚して八年ほど経っているが、そんなかしこまったこと意外としたことなかったね、とお互い不思議に思った。それくらい自分たちは日々の生活に追われて忙殺されていたのだ。ふたりでいるから一定の日常は保てられていたけれど、それが麻痺しているくらいには、ちゃんと話ができていなかった。あとでも大丈夫と、思い込んでいた。
死にかけて、はじめて後がないかもしれないと気づけた。
だから渋谷での出来事があってよかったなんでひとつも思わないけれど、何かのきっかけにしないとやってられないから。