望み
楓が無事退院して数日経った。暫くは絶対安静と言われているのに、彼女自身自宅でゆっくり寝て過ごしたりするのも飽きてきたようで、何かと溜まっていた家事を片付けたり料理をしたりと無理のない範囲で忙しなく動いているようだった。頼むから絶対安静の意味を調べてくれ、寝ていてくれと頼んでも、動けるからなぁと彼女は聞いてくれない。それが楓だというのは高専時代からいやというほど思い知らさせれていたけれど、今回ばかりは本当にやめて欲しかった。しかしこちらが言っていうことを聞けばこれまでだって苦労していない。半ば自分も投げやりになって、「じゃあ今夜開催しますか、第一回七海家家族会議」と言えば、彼女は少し驚いたような顔をした後、大きく頷いた。予想に反して、不思議と楓に笑顔はなかった。
夕食を食べ終え、一緒にキッチンの片付けをしてからダイニングテーブルに向かい合って座った。淹れたばかりのコーヒーはカップの上に湯気を漂わせていて、それに手をつける前に、順番にやりたいこと、叶えたいことを吐き出していこうとふたりで頷きあう。私の手元には内容を書き留めるためにノートを置いていた。議事録?!七海本格的!!と楓は言っていたが(議事録というほどのものではないが…)、やりたいことをリストアップして優先順位をつけるためにはまずはお互いの望みを書き出すのが一番だろう。お先にどうぞ、と楓に発言を促せば、彼女は、一瞬口を開いてまた閉じた。そして一度目を閉じて息を吐いたかと思うと、こちらを真っ直ぐ見つめて言った。
「子どもが欲しいんだよね」
メモを取ろうとしていた手が止まった。は?と思わず聞き返せば、子ども・と楓はもう一度言った。予想だにしていなかった彼女の“最初に叶えたいこと”に思わず動揺して、何も言えないまま黙って楓を見つめていれば、楓はいきなりびっくりしたよね、と曖昧な顔をして笑って見せた。それはまるで場を和まそうとしているような表情で。しかし次の瞬間にはまた真面目な顔に戻った彼女は、あのね、と言葉を続ける。
「万が一だよ?万が一、この先この間みたいなことがあってどっちかが先に死んじゃった時にさ、私たちの場合、残った方の生きる意味、なくなっちゃわない?」
その楓の言葉は胸から腹にかけてずどんと重くのしかかり、側頭部を何かで殴られたような感覚がした。
高専卒業と同時に結婚した意味。それは、呪術師として働くにあたり死に急ぎかねない楓の命の重石に自分がなりたくて、夫婦という縛りを結びたくて、すべての工程をすっ飛ばしてプロポーズした。それを彼女も受け入れてくれ、無事に夫婦となったのだ。楓の命の重石となってから数年後、自分がまた呪術師に復帰した時からは、お互い死に急ぐことのないよう、お互いがお互いの命の重石になったと言っても過言ではない。
今後も彼女が言うように渋谷のような出来事があれば、今回のようにふたりとも生き残る方が奇跡で、今後どちらか、または双方が死ぬことだってあり得る話なのだ、呪術師である限り。もし今の状態で楓を失っていたと考えると、自分は自暴自棄では済まないレベルに堕ちていたと思う。楓を殺した呪術界に見切りをつけて去るならまだマシで、全てを壊そうと呪詛師になってしまいかねない。それを楓も察していたのか、「私の場合は後追いしそうだし、七海の場合は呪詛師になりそうなんだよね」と言ってきた。夫婦は思考が似てくるというが、それをこんなところで証明されたくなかったというのが本音だ(というか後追いだと?)。後追いってあなた、と言いかけたが、話が逸れそうなのでここはぐっと我慢する。続きを促せば、楓は首を傾げながら少し笑った。
「結婚してからずっと子どものことは話したかったんだけど、実際これまでそんな暇もなかったし、現実的じゃないって七海も思ってたでしょう?」
楓の全てお見通しというような言葉に思わず頷いてしまう。別に、楓との子どもが欲しくなかったわけではないし、望もうと思えば望めたのは事実。だがそれを今まで避けていたのは、ひとえに逃げでしかなかった。それはまぁ…と楓の問いかけに言葉を濁しながらも、これまで避けていた理由を答える。
「…こんな仕事をしていれば、いつ我々が死ぬかわかりませんからね。後は…」
「子どもには呪術師になってほしくない、だよね?」
言い淀んだところに鋭く切り込まれた。それはまさに、図星だった。呪術師の家系があるように、おそらく呪術師の素質は遺伝の力が大きい。両親ともに呪術師の場合、生まれてくる子どもは少なくとも呪霊が見える側だろう。世界の大多数を占める非術師ではなく、マイノリティな見える側、戦える側になった子どもは間違いなく自分たちと同じ道を辿ることになる。その先にあるのは。思わず、高専時代に殉職した同期の屈託のない笑顔が脳裏にチラついた。
何も言わずともこちらの考えがわかったのだろう。楓が口を開く。
「それは私も考えたんだ。でも、呪術師になる、ならないの選択は本人がすることだし。幸い、私たちは子どもが小さい頃から身を守る術を教えてあげることができる。それに、非術師だって命懸けの危険な仕事、いっぱいあるしね」
そう言いながらどこか達観したように視線を上げた楓は、この件について完全に自分の意見、考えをまとめているのだろう。それくらい、スラスラと喋り続けるし、言っていることに矛盾がなかった。
「命をね、簡単に、簡単じゃないけど作って自分達の都合の良いように…重石にしたいって聞こえちゃうかもしれない。本心ではないにしろ、そう思われても仕方ない言い方しちゃってるのはわかってるの。でも、やっぱり私は明日死ぬかもしれないから、そうなった時に七海を支えてくれる存在をちゃんと遺しておきたい。それは、逆も然り。七海がいなくなった時に、私の生きる理由が欲しい」
真剣な顔をして楓はそう言い切ったかと思うと、突然くるりと表情を変えて、「難しいことたくさん言ったけど、本音はね、単純に私、七海との子どもが欲しいだけなんだ!」と、少し照れたように笑った。
それが楓の本音。その顔を、私は一生忘れることはできないだろう。
「七海は?どう思う?」
身を乗り出すようにしてこちらの反応を聞き出そうとする楓に、反論する理由は何ひとつなかった。むしろ結婚してすぐにでも子どもについては話し合うべきだったのに。自分が逃げてきたことで、この件をすべて楓に背負わせていた。本音でぶつかり合うのがその贖罪になるだろうか。
握ったままだったペンを机に置いて代わりに自分の手を結ぶ。そして、私も、と小さく声を発した。
「…私も、楓との子どもが欲しくなかったわけではないですよ。ただやはり、両方が死んだ時のことを考えるとなかなか言い出せなかった。あとは、…灰原のような子どもを増やしたくなかった」
ぽつりと本音をこぼせば、楓は少し驚いたように目を瞠った。
誰よりも明るく太陽のようだった同期を思い出す。彼のように子どもながら戦って散っていく、大人は守ってくれない、そんな世界に嫌気がさして一度は去った。しかし、らしくもないやりがいというものを求めて戻ってきて、あの頃の自分達を守って欲しかった大人になろうと必死に戦ってきた。子どもは大人に守られるべき存在。それは常に自分に言い聞かせていて、その対象を守るために全力で戦っている。でもそれを、自分たちの子どもを求めないという理由にして良いのだろうか。
沸いた疑問に対して、楓が小さく答えてくれる。
「それ、灰原が聞いたら怒ると思うよ?」
「でしょうね。自分を理由にするなと言われそうだ」
自分にできることを精一杯頑張るのは気持ち良いと言っていた同期。深く考えすぎなんだよ七海は、と、灰原に肩を叩かれた感覚がした。
呪術師に戻った時のように、自分はもっとやりがいや生きがいを求めても良いのだ。らしくないと思うが、それが自分にとって、自分たちにとって必要なら。
「…私も子どもは欲しい。楓に負担をかけることになるが、それでも良いなら望みたい」
ぽつりと溢れた本音に、楓はにっこりと笑ってみせた。負担じゃないよ!と手を取られる。ふたりで頑張れば大丈夫!とそれはそれは嬉しそうに笑った。ああ、彼女のこんな笑顔を見たのはすごく久しぶりで、ずっとこの表情を見逃してたのかと思うともっと早くこの話をするべきだったなと思わず苦笑しかけた。
一番に叶えたいことは、決まった。
「では子どもを迎えるための準備を最優先事項としましょう。楓、あなたの任務内容、仕事量は今すぐにでも調整するつもりでいてください」
「今すぐ?なんで?」
きょとんとする彼女の持ち前の鈍さに思わず舌打ちを仕掛けた。子どもを望む理由をあれだけ矛盾なく考えてまとめていたくせに、実際迎えるための準備のことは考えてなかったというのか。楓らしいといえばそうだが、こればっかりは考慮しないとこちらの寿命が縮む。なるべくオブラートに包もうとしたがそれは無理だった。馬鹿か、と吐き捨てるように言えば、馬鹿?!と楓は心外だと言わんばかりに反芻してきた。悪いがここは容赦しない。
「あなた、子どもを迎える準備ということはいつ授かってもおかしくない状況になるということです。せっかく授かった直後に気づかず危険な任務で渋谷の時みたいに腹でも刺されてみろ。どうなる」
わかりやすい例を挙げてやれば、彼女はひっと声をあげて顔を青くした。さらにいうとまだ楓は絶対安静の状態なのだ。子を作るといってもそれが解けてからじゃないと無理に決まっている。
「リハビリもあるでしょうし、絶対安静が解けたら今後は医務室勤務メインで。言いにくいようなら私から上に調整を願い出るが?」
二級より一級の方が通りやすい調整もある。ここはもうこれまで公私混同を避けてきたのだから今回ばかりは思う存分この立場を利用させてもらうことにする。何か問題は?と楓に問えば、彼女は首を横に振った。
「そういうの、七海の方が気がつくと思うからすごく助かる」
ありがとうねぇ、とふにゃりと笑った彼女に、礼を言うのはこちらの方だと返す。これから楓はまだいない子どものことを最優先に考えて生きていくことになる。ただ種を出すだけの自分とは比べ物にならないくらいのプレッシャーと身体的、精神的な負担に襲われるだろう。それを覚悟の上で彼女は子を望んでいる。それに応えられなくて夫といえるものか。
「七海の叶えたいことは?」
交互に言おうって言ったでしょ、と楓が次の話題に切り替えてくる。最優先事項は決まった。ならばもう自分が望むのはひとつしかない。
「無事子どもが生まれて、その子がある程度まで成長したら、家族でクアンタンに移住する」
私が望むのは家内安全、それが全てです、と答えれば、楓は欲がないねと笑った。