虹が生まれる
その日は突然やってきた。突然といってもいつ生まれても良いように準備はしていたから、少し早まったとはいえいよいよかとどこか冷静な自分がいた。というか早すぎじゃない?せっかちさんなの?と大きくなった腹をひと撫でする。「痛…」と思わず声が出るくらいの鈍痛に襲われながら伊地知くんと硝子先輩に電話を入れて、病院までの送迎をお願いした。前々からひとりでタクシーで病院まで行けるよと進言したのに、私の言い分は却下され、信頼できる人に任せたいという七海の意向が全面的に採用された。公私混同はしないタイプなのに、この件に関していえば七海はとても過保護。絶対に自分を曲げなかった。大事にしてもらってる証拠じゃん・と硝子先輩には笑われたけど。それはきっと正しい。気を遣ってくれる七海の前で、大事にしてもらえて嬉しいねと腹の子に話しかければ、あなたが何よりも大事なのでと恥ずかしげもなく言い返されて赤面してしまったのが少し前の話だ。
そう、七海。七海にも電話しないと、といの一番に連絡しなければならない人にまだ連絡していないことを思い出し、玄関でひとり苦笑する。まあ連絡してなかったのはあえてだったりするので、握った携帯端末のボタンは押さずにポケットにそれをしまった。任務中だし病院についてからでいいかななんて思いながら(前駆陣痛でまた家に帰されるかもしれないしね)、何度も何度も確認した入院グッズの入った鞄を手に、マンションのエントランスに降りて伊地知くんを待つことにした。
・・・
ポケットに入れていた携帯端末が震えて、鈍を持っていない方の手で取り出して画面を確認する。楓だ。任務中にメッセージではなく電話をかけてくるのは珍しいなと思いながら、3コール目で、もしもしと応答した。いつもなら任務中にごめんね、と言ってくるのに、今日の第一声は違った。
『七海ー。陣痛きたー』
「…は?」
我ながらこの返しはないと思った。しかしあまりに突然のことで呆けてしまい、それ以外の言葉が出てこなかったのだ。今朝家を出る時には何の変化も前兆もなかったから尚更だ。言葉を続けられないでいると、楓は気にするそぶりもなく喋り続ける。
『今ね、伊地知くんに病院連れてきてもらってお医者さんに内診してもらったんだけど、進みが早いから今日産まれるだろうって…あいた、痛い痛い…』
痛みに呻く楓の声に、思わず眉間に力が入るのを感じた。待て、色々突っ込みたいことが多すぎる。なぜもう病院にいるのか、伊地知くんに送迎してもらっているのは良いことだが自分への連絡が今か?とか、進みが早いとか、今日産まれそうとか、そもそも産まれそうと言ってもまだ予定日は一月ほど先だったはずだとか。
「待ってください、予定日まだ先でしょう」
早くないですか?と楓を気遣うより先に疑問が出てしまった。それに対して楓は特に気に留めた様子もなく、一応今日から臨月だからセーフ!とうめき声と共に回答してきた。セーフなら良いのか、そうかと思いながらも、いやいやこちらの気持ちが追いついていないと頭を振る。
眼前に現れた呪霊を無言のまま鈍で分断し、はぁ…とため息を吐く。痛みを紛らわすためなのか喋り続けている楓の声がまた電話ごしに聞こえてきた。
『初産でこんな早まること珍しいらしいんだけど、赤ちゃんせっかちさんなのかなぁ。痛い痛い…いやー陣痛って思ったより痛いね…!ぶっちゃけさ、痛…、あの、足飛んだ時より痛いんだよね、あはは…』
「足飛んだことあなたありましたっけ?」
『え?あ、やば…』
足飛んだこと、黙ってたな。
思わず舌打ちをしていつの話だと言いそうになったが本題から逸れる。ぐっと言葉を飲み込み、呪霊をさらに分断しながら、いいから集中・と楓に一言告げた。
「なるべく早く向かいます。それまで頑張れますか?」
『…うん。頑張る。七海も気をつけて』
ふわふわした声が急にキリッとして、いつもの楓に戻った。
またあとで、と電話を切れば、何事かとこちらを見ていた猪野くんと目が合った。
「猪野くん」
「はい!」
「妻が産気づきました。マッハでここ終わらせますよ」
「はい…てうぇえ?!それ七海さん今すぐ帰った方が良くないですか?!」
「こんな深部まで入って引き返すくらいなら全部祓ってからマッハで帰ります」
話はここまで・と無理やり会話を終了させ、襲いくる呪霊を叩き切る。
やってらんねー。
なんで子どもが産まれようとしているのに仕事をしているんだ。頭の中で悪態を吐きながら目の前の呪霊を切って祓い続ける。かつて人とも呪いとも無縁の生活を望んだ。その思いは完全に消えたかと言われればそうではない。今だって呪いとは無縁でいたいし、楓と生まれてくる子以外とは必要最低限しか関わりたくない。それでも、自分の世界の中心にいるのは楓で、そこに新たな家族が増えようとしている。こんなことしている場合じゃないのに、呪術師である以上、呪いは付き纏い解放してくれない。嫌になる。それでも今は一刻も早く楓の元に向かうため、自分に課した時間の縛りを解除して目の前の呪いを祓い続けることにした。
・・・
正直痛みがピークを迎えてからというもの、記憶らしい記憶は残っていない。任務先から直接病院に駆けつけてきた七海に、硝子先輩がせめてシャワー浴びて着替えてからこいよと言っていたのは朧げに覚えている。私の術式で自宅まで送ってあげられたら一発なのになぁなんてこと思いながら、私は襲いくる痛みに耐えるのが精一杯で、その後七海が一回帰ったのかずっと一緒にいてくれたのかすら今はもう思い出せなかった。それくらいあの時は切羽詰まっていたし、子を産む痛みはかつて負ってきた数多もの怪我の痛みとは比にならないことを実感した。
だから子が生まれた瞬間、痛みから解放されたと同時に世界に光が差したように思えて、思わず隣にいてくれた七海の顔を見て泣いてしまった。死にかけてから実感した、叶えたかった夢が叶った瞬間、それは私にとっても七海にとっても代え難い一瞬で。これからこの子の人生は、明るく眩いことばかりではないだろうけれど、それでも闇が降り注げばそれを祓ってあげられる親でいよう。そして、半泣きの七海を見れたことは私の記憶だけのものにしておこう。私と同じ黒髪、七海と同じ碧眼の我が子を抱きしめながら強くそう思った。