少し先の話をしよう
「おすすめの移住先?」
私の問いかけに鸚鵡返しをしてきたミステリアスな女性に、私ははいとひとつ頷いた。
冥さんとの合同任務終了後、高専からの迎えを待つ間に入ったカフェでの何気ない会話だった。コーヒーにミルクを注ぎながら冥さんは、どうして急に?と首を傾げながら問うてくる。私は今すぐどうこうって訳じゃないんですけど、と前置きをしたうえで、自分のルイボスティーの入ったカップを手に取って一口それを飲んだ。
「家庭の事情…て言ったらそれまでなんですけど、うち、近々家族も増えるので、数年以内には夫婦共々呪術師引退してどこか海外に移りたいねって話をしていて」
七海はクアンタンが良いって言ってたんですけど、まだ時間もあるからゆっくり他の候補地を考えるのもありだよねって話も出ていて。そう続ければ、なるほど、と冥さんは頷きながらコーヒーを飲んだ。
お互い死にかけた後人生を見つめ直し、子を持とうという話になって、いわゆる妊活をしてまもなく授かった命は今私の腹の中ですくすく成長している。本来なら任務に出るのは厳禁の身なのだが、今回は拐われた一般人の救護も任務内容に入っていたため現場に赴き必要に応じて直接私が治療することになったのだ。久しぶりの現地任務ということもあり緊張したのは事実だが(私以上に七海の方が緊張…というかあからさまに嫌がっていたけど)、冥さんと一緒だし呪霊との戦闘も全て冥さんにおまかせしたので終わってしまえば気楽なものだった(怪我人もほとんどいなかったので、私の呪力消費はほぼなし。ちょっとした遠出の出張レベルで終わってしまった)。
任務後なのに涼しい顔をした冥さんは、しばらく外に出ていないのだろう・と気を遣ってくれてカフェでお茶をすることにしたのだが、たまにはこういうのも気分転換になって良いかもしれない。…あまりやりすぎると危険な目に遭いそうなのと七海の胃に穴が空きそうなので、今回のようにどうしてもというとき以外は現場での任務はこれまで同様控えるが。
「差し詰め、子どもの教育面も気にしての移住先再検討ってところかな?」
「そうなんです。子育てのしやすさって重要じゃないですか。日本にいても大変そうなのに、ましてや海外ってなると私からしたらもうハードル高くって」
「確かに」
カップを持ち上げコーヒーをもう一口飲んだ冥さんは、ついと視線をあげて何かを思い出すように言った。
「そういえば昔、七海くんにもおすすめの移住先を聞かれたよ」
君と結婚する前だったかな、と顎に手を置いて考えるようなそぶりを見せた冥さんに、それって学生時代じゃないですか…と返せば、卒業間際だったかなと言ってくる。あの頃のことを七海に聞くと、「とにかくひたすら金を稼いで早く楓を引退させてどこかに移住したいと思っていた」とは言っていたけれど。まさか的確な返事をしてくれそうな冥さんに学生の頃からそんなことを聞いているとは。少しびっくりした。
「それで冥さんがクアンタン勧めたんですか?」
「いや?私は、新しい自分になりたいなら北に、昔の自分に戻りたいなら南に行きなさい・と助言をしたよ」
それでも彼は南国を選んだのなら、そういうことなんだろう、と彼女は続ける。昔の自分に…と口の中で独りごちれば、冥さんは、色々知りすぎる前の純粋な自分に戻るのもありかもしれないね・と小さく笑って言った。
・・・
「七海は昔の自分に戻りたいから南国に移住したいの?」
無事帰宅してふたり揃って夕食を食べ終えて、お風呂上がりに髪を乾かしてもらいながら七海に問えば、なんですか突然、と彼は驚いたように声を上げた。耳元でドライヤーの音がするから、お互い会話は少し声のボリュームをあげている。今日冥さんに聞いたんだけど、と昼間の話をしてやれば、随分前のことを…と七海は呟いた。
「あの頃は呪術界のすべてに絶望していましたからね、後ろ向きな私らしいでしょう」
「うーん、それを今も引きずってクアンタンなら考え直して、て言いたいところだけど…」
別に後ろ向きじゃないしあの頃とは違うでしょ?と七海を見上げながら言えば、彼は小さく笑って、確かに変わったが、と前置きをして言葉を続ける。
「元来生き甲斐ややり甲斐とは無縁の人間ですからね。呪術師も労働も全てクソだと悟る前に戻りたいといえば本音でもあるが。まぁそうなるとあなたと出会えてませんからね」
額に触れるだけのキスを落とされて、腹をそっと撫でられる。まぁそこは私も同じだけど…と呟けば、七海はどこでもいいんですよ正直な話、と呟いた。
「楓と生まれてくる子が健やかに、家族揃って暮らせるならどこでもいいんです。まぁ呪霊とは無縁でいたいので、海外移住は前提で、できれば海辺が理想なんですけどね」
それでもまああなたと一緒ならどこへでも、と頭を撫でられて囁かれれば、引っかかっていた全てがもうどうでもよくなった。
「私たちは変わる必要ないし、今のままでいいから、クアンタンに行くのが一番かもね」
新しい自分にならなくてもいい。このままでいい。このまま私達らしく、生まれてくる子を守れれば。それだけで良い。