王族が暮らす宮殿の敷地内には皇子たちが暮らす離宮が点在している。宮殿の中心部から一番遠いところにグリムジョーの離宮はあった。漆喰のアーチ型の門をくぐり抜けるとすぐに回廊に行き着く。回廊は細い水路に挟まれていて、水路の奥の空間には屋根のあるテラスや吹き抜けの小さな庭園が存在していた。庭園には砂漠では珍しい緑の植物が繁り、一段低く土を掘って作られたであろう水盤には薄く水が張られていた。雨がぽつぽつと水盤の水面を揺らし底に貼られていた様々な色のモザイクタイルをキラキラと反射させた。
凪はグリムジョーに肩を押されながらも周囲の美しい景観に視線を巡らせる。外が砂だらけの国とは思えない。この離宮だけ何か違う空気が流れているような感覚がした。
回廊を抜け辿り着いたのはグリムジョーの自室だった。窓際に置かれた白くて大きなソファと小さなサイドテーブルには果物が盛られた小籠があった。床に敷かれた絨毯は毛足が短いペルシャ柄で、部屋の奥には天蓋付きの寝台が設置されている。逆側には壁一面に書物が納まった大きな本棚。そして部屋の入り口の正面には大きなデスクが鎮座していた。デスクの上には数冊の本が無造作に置かれている。
開け放たれた窓から風が入り込み、同時に湿った砂と雨の匂いがした。
部屋を見渡す凪を一瞥し、グリムジョーは彼女の肩から手を離す。そして頭を掻きながら正面のデスクに向かい椅子を引いて腰掛ければギィ、と背もたれが軋む音がした。
「くそ、肺が汚れた」
あいつらと同じ空気吸うとまじで気分悪い・と舌を出しながら悪態を吐くグリムジョーは、ディ・ロイ!と従者を呼んだ。
「何?」
「なんか拭くもん持ってこい」
部屋の外で控えていたディ・ロイが顔だけ覗かせるとグリムジョーは短く命じた。はいはいとディ・ロイはどこかに駆け出したかと思うとすぐに絹でできた布を持ってきた。
凪の隣をすり抜けディ・ロイはそれをグリムジョーに手渡すが、グリムジョーは受け取り様に一瞬眉をひそめてそれを凪に投げて寄越した。
「濡れてんぞ」
グリムジョーは凪の右肩を顎で指し示し、俺の分も持ってこいと再びディ・ロイに低く命じた。
凪の指が肩先に伸ばされた。ここに来る途中、渡り廊下に吹き込んだ雨によって濡れたものだろう。黙って受け取った布を肩口に押し当てながら凪は口を開いた。
「あなたが何を考えてるかよくわからないのだけど」
首を傾げながら問うてくる凪に、グリムジョーはこめかみを揉みながら別に何も考えてねえよと躊躇いなく返した。
「あのカス共、お前を共有するっつってたろ?兄弟で女まわす趣味はねえ。胸糞悪い」
それだけだ、とグリムジョーは言って、ディ・ロイ遅え!と声を張り上げた。はいはい!と再び部屋に飛び込んできたディ・ロイから絹の布を受け取りグリムジョーはそれで自分の髪を拭いた。怪訝そうな顔をしたままの凪に対し、グリムジョーは溜息を吐く。
「すぐに部屋を用意させる」
凪から視線を外し手元の書物に目を伏したグリムジョーに対し、ディ・ロイがあっちの日当たり良い部屋にする?と勝手に話を進め始めた。主人の帰還を聞きつけたのか、凪の隣をすり抜けてグリムジョーの傍に寄って行った長髪の男が、窓がない部屋の方が良くないか?とグリムジョーを挟んでディ・ロイに進言している。あーたしかに、でもなぁ、とああでもないこうでもないと主人であるグリムジョーの意向は一切確認しようとしないままふたりは話し込んでいた。
立ったまま存在を忘れられたかのように待ちぼうけを食らっていた凪は、少し湿った絹の布を両手で握りしめて口を開いた。
「父が、この国の末の皇子に嫁げと」
途端ディ・ロイたちの声も止み、グリムジョーが視線を上げた。凪はその水色の瞳をしっかりと見据え、「あなたのこと?」と再び首を傾げた。しかしそれには媚びた様子も怯えた様子も一切なく、単に事実確認をするものに思えた。グリムジョーは否定も肯定もしなかった。それがある意味肯定だと凪は察した。
背もたれに体重を預けながらグリムジョーは言う。
「てめえもこの状況は不本意だろ。別に悪いようにしねえよ、好きに過ごしとけ」
なんかあったらこいつに言え、と親指で隣に立っていたディ・ロイを指し示す。ひらひらと手を振ってくるディ・ロイとグリムジョーを交互に見やるが、凪はどんな表情をしたらいいかわからなかった。それを感じ取ったのかグリムジョーは早く行けと手の甲で凪を追い払うような仕草をする。それが合図だったかのようにひょこっと跳ねて凪の正面にやってきたディ・ロイが、部屋に案内すんね!と明るく声を上げた。
「ついてきて、荷物は後で運ばせるから!」
ディ・ロイが扉の方に向かい凪を呼ぶ。凪は躊躇いながらグリムジョーを見るが、彼は本に視線を落としたままでそれを再び凪の方に向けることはなかった。小さく息を吐いて凪は踵を返す。グリムジョーに背を向け部屋を出た時、その背をグリムジョーがじっと見ていたことに彼女は気づかなかった。