振り返り様にぱあっとギザギザの歯を見せながら笑って自分の名を告げた短髪の青年は、よろしく!と元気よく言った。凪は虚をつかれたように目を瞬かせ、ぺこっと頭を小さく下げる。凪です、と自分の名を告げることも忘れない。
ディ・ロイは、「この離宮、他と比べると小さい方なんだけど十分広いよなー」と歩きながらひとり喋り続けている。特に返事を求められている内容でもなかったので、凪は相槌を打つこともせずただ彼の背を追った。
ディ・ロイの歩くたびに揺れる金色の短い髪が視界に入る。ああ、そういえば私の夫になるはずの人にちゃんと名前を聞き忘れたな・と凪はぼんやり思った。グリムジョーと呼ばれていたからそれが彼の名前なのだろうが、本人から直接聞いたわけではないので彼をなんと呼んでいいかまだわからなかった。
印象的な色の髪と瞳の青年だと思った。輿から降りてベール越しに見た景色の中で一際その水色が目立っていて、何度か無意識にそちらに目をやってしまった。一方で玉座の間での彼の振る舞いと鋭い眼光は自分の身内に向けるようなそれとは思えなかったが、はじめて会った自分の肩を押すその力は決して乱暴なものではなかった。悪いようにはしない、好きに過ごせと彼は言った。他意はないと思いたかったが、その真意をあの短時間ではかるには圧倒的に情報が足りていなかった。
自国を侵略した国に嫁げと言われた時、嫁ぐという行為にいつ殺されるかわからない人質という意味合いが含まれていることを察していたが、正直とうとう自分の番が回ってきたとしか思わなかった。
良好な国交を築くため幸せを約束された上で嫁いでいった姉たちと、敗戦後に人質として自国を侵略した国に嫁がされた姉たち。幼い頃からそんな姉たちを何度も見送った。そして彼女たちの行き着く先は両極端だったことも知っている。人質として嫁がされた姉たちは嫁ぎ先の国で既に命を奪われていて、その報せを聞くたびに、いつか自分の番が回ってくる、きっと自分は幸せな結婚とは程遠い後者の側なのだろうと予感していたが。そして突然訪れたその日。案の定自分は人質だった。ずっと予感していたものが現実となり、やはりこれが自分の
「グリムジョーも言ってたけど、この部屋好きに使っていいから。必要なものがあったら言ってね」
案内された部屋は客間のような造りをしていた。最低限家具は揃っているし、きちんと掃除も行き届いているようだった。
人質なのだからどんな目に遭わされても驚かない。そう覚悟していたのに、想像以上に丁重に扱われている今の状況にはある意味驚かざるを得ない。
一見横暴に見えた振る舞いだったが、あの末の皇子は自分を明らかに庇ってくれていた。表情には出していなかったと思うが、幾分も自分と年の離れた男たちが自分を共有すると言い出した時には背筋が凍りそうになっていたし、彼に肩を押されここまで連れてこられる間も一体どうなるのかと心臓が飛び出そうなほど大きな音をたてていた。しかし蓋を開けてみればきちんと人間らしい部屋を与えられ、好きに過ごしていいとまで言われた。何か裏でもあるのではとまだ状況を信じられない自分がいる。
決して油断はすまいと渡されたまま持ってきてしまった絹の布を胸元でぎゅっと握り込んだ。
強張った身体と、きゅっと固く結ばれたままの凪の口元を見て、ディ・ロイは「大丈夫だと思うよ」と声をかけてきた。
「グリムジョー、君に何かするつもりならもうしてるし」
まあ顔は怖いよなーあいつ、口も悪いし・と主人に対する発言とは思えないようなことを言いながらディ・ロイはまたね!と部屋を出て行った。笑って手を振った彼の目が一瞬据わった気がしたが、ぱたんと音を立てて扉が閉ざされたことで再度確認することは阻まれた。
閉まったままの扉を何秒か見つめて、部屋の外から感じる人の気配が消え去ったことを確認してから凪は肺の中の空気をすべて吐き出すかのように息を吐いた。そしてへたりとその場に座り込む。石の床はひんやりとしていて、薄い衣服ごしに触れた脛の体温が奪われていくのを感じた。
自分はこれからどうなるのだろうか。緊張が解けたのか血流が一気に脳に巡りはじめる。ずくんずくんとこめかみ辺りが脈打ちはじめ、思わず額を掌で覆いながら意識して深呼吸をした。
・・・
「お前、あの皇女気に入ったんだろ」
凪とディ・ロイが部屋を出て行きその足音が聞こえなくなった時、イールフォルトは口元を引き上げながら面白そうに言った。グリムジョーは頬杖をつきながら、別に・と半眼据えたまま返事をする。そんなわけないだろ、とそれを即座に否定してきたイールフォルトをグリムジョーはさらに重ねて否定する。
「そもそも興味ねえ。部屋与えて放置しとくだけだ」
「興味ないのにお前がここに俺たち以外を住まわせるなんてありえないだろ。ディ・ロイまでつけて。ありゃ放置じゃない、保護だ」
保護、という単語が頭の中で反芻される。彼女と対面してから今までの自分の行動を振り返るが残念ながらそれを否定できる要素はどこにもなかった。言葉が出てこず思わずチッと反射的に舌を打てば、ほら見ろ!と大袈裟にイールフォルトは声を上げた。
「噂じゃ醜女だって聞いていたが、当てにならないな!」
「どこからそんなガセ流れてきたんだよ」
彼女の姿を見るまで誰もがその噂を信じ込んでいた。だが凪の姿は到底醜いと表現できるものではなかった。見目はさることながら彼女を取り巻く空気感は一国の皇女としての気高さと誇りすら感じ、そしてこの状況にも臆さない意志の強さ、目力の強さは特に印象的だった。正直どこをとっても醜いと形容できるものはない。
「だが…」
イールフォルトが腕を組みながら閉まった扉を見る。
「もうひとつの噂の方はどうなんだろうな」
グリムジョーはイールフォルトを視線だけ動かして見上げれば、同じように自分を見下ろしていた彼と目が合った。そこに面白がっているような色は見受けられない。得体の知れないものは主から排除する。それが従者である彼らの本質だ。主に危害がおよぶのであれば容赦はしない。一切の笑みを消した眼でそう告げているかのようだった。
「…異能使いってやつか」
グリムジョーが呟けばイールフォルトは呼応するように頷いた。凪は去り際、自分に対し何か言いたげな視線を向けていた。自分が意図的に目を合わせなかったからか躊躇しながらもディ・ロイと共に部屋を出て行ってしまったが。彼女は何を言おうとしていたのか、異能と言われるものについて自ら言及しようとしたのか。
グリムジョーは頬杖を突き直し窓の外に視線を向ける。まだ雨が降り続けている薄暗い空を見上げ大きく息を吐いた。