部屋に上がる前、車内にいる時からずっと震えているくせに。怖いくせに。それでも、彼女は否とは言わなかった。本当は怖くて怖くて仕方ないのだろうに。それを指摘してやれば、彼女は「何でもする・て言ったのは私ですから。約束を破るのは一番嫌いなことなんです」と無理に笑う。
アレルヤは、帰って来る・て言ったのに帰ってこなかったですし
と表情を変えずに言い切った。約束を破られることで人はどれだけ傷つくか、彼女は身をもって知っている。知っていて、利用した。「アレルヤ」を忘れたくないんだろう?どうせ、「アレルヤ」しか男を知らないんだろう?
「アレルヤ」は良い男だったか? 彼女を抱きながらその小さな耳元で囁いてみれば、
「彼みたいな人、世界中探してもどこにもいませんよ」 と返された。
泣きそうな顔でなんでもないように振舞うノエルの顔を見たくなくて。そのまま深く口付けて彼女の顔を見ないように抱き続けた。
上半身を起こして煙草を蒸かす。医者という職業柄、ヘビースモーカーというわけではないが、たまにこうして吸うこともある。苦い煙が肺に入り込む。吐き出したそれが空気を汚した。
「…煙草、身体に悪いですよ」
シーツに包まって寝転んだまま、眠そうな顔をしたノエルが言った。ちらりと彼女に視線を向けて、ライルは再び正面を見据える。
「ニールだって吸ってたろ」
「吸ってませんよ」
「いいや、先に煙草をはじめたのはあいつだ。…いつまで吸ってたかは知らんがな」
小さな頃からニールの真似を何でもしてきた。彼が読んでいた本を自分も読み、彼がはじめたスポーツを自分もはじめたり。ニールが煙草を吸い出せば、自分も同じ銘柄の物を吸った。…真似をしてもニールにはなれないと気づいたのは、それを認めたのは、一体いつだっただろうか。
「…マリアの前では吸わないでくださいね」
ニールが喫煙者だったとはじめて知ったノエルは暫く驚いたような表情を浮かべていたが、すぐにその表情を打ち消してから小さく言った。「自分の前で吸ってもいいから、か?」とライルが皮肉めいたそれを浴びせてみれば、「そうですね」とノエルは顔色も口調も変えずに言い切った。
「マリアに害がないなら、何でもいいです」
自嘲気味にそう呟いたノエルは、枕に顔を埋める。身体が辛いのか、あまり身動きをしない。彼女の銀髪がさらりとそこから零れて、新雪のようにシーツの上に広がった。暫くそんなノエルの様子を見ていたライルは不意に煙草を口から離し、ノエルがいる左とは反対の手で煙草を持ち替えた。そして、頭上からノエルに言葉を投げた。
「お前、死にたいんだろう?」
会いたいんだろ、「アレルヤ」とニールに。
びくりとノエルの白い肩が震える。枕に埋められた表情は見えない。けれど、今までで一番の動揺がその震えからうかがえた。
マリアの前では気丈に振る舞い、いつも冷静に世界を見ていた。けれど、どこかノエルには影があった。それはきっと、誰も気づかない。本当に曖昧で、確信はずっともてていなかったけれど。彼女を抱いて、はじめて確信した。
ライルはそれ以上何も言わずに彼女の答えを待つ。何も答えないかとも思ったが、数秒、数十秒、数分。短いようで長いようで、よく分からない時間間隔の後、ノエルが震える声を押し殺しながら呟いた。
「会いたい、ですよ。アレルヤがいなくなってから、寂しくてどうしようもないんです。でも、私がいなくなっちゃったらマリアはどうなるんですか?だから、まだ会いにいけないんです」
それに、私がマリアを置いて会いに行っちゃったら、アレルヤもニール兄も怒りますよ。
顔を上げて、ノエルが泣きそうな顔で笑った。だからまだいけないと。会いに逝けないと彼女は笑う。ライルは無表情のまま彼女を見つめていた。そうやって暫くした後、ノエルが自嘲気味に笑って言った。
「ライル兄がマリアのこと大事にしてくれるなら、私も安心してふたりに会いに行けるんですけどね」
「…はっ。俺がお前のガキを面倒見る理由なんてないだろ。しかも大事に?勝手なこと言うな」
「大丈夫ですよ。なんだかんだ言ってライル兄は面倒見いいですもん。そういうところはニール兄にも負けてません」
どこか自信を持って言うノエルに、ライルは顔を彼女から背けた。そんな彼の様子にノエルは小さく笑い、気怠そうな身体をベッドから起こす。帰ります・と短く告げ、床に落ちた衣服を拾い始めた。
「別に泊まってもいいんだぜ」
「仕事、休めませんから」
「身体平気か?」
「貴方がそれを言いますか」
短い言葉の応酬を繰り返しながら、ノエルは着替えを進める。泊まる気は毛頭ないようだ。ソファに乱暴に置かれていたコートを最後に着込み、ノエルが「じゃあ、帰ります」とライルの方を振り向く。「車、出す」と立ち上がりかけた彼を制して、ノエルはまた笑った。
「さっきの答えです。…死ねませんよ、まだ」
そう言って妙にすっきりとした顔をした彼女を明け方になって見送った。どうして、あの時無理にでも泊めなかったのだろう。いくら強く固辞されたからといっても、無理矢理車で送っていれば何かが変わっていたはずだ。少なくとも、あんなことにはならなかったはず。
後悔しても、時間は戻らない。
ニールがいなくなった、あの時のように。
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