「マリアの熱が下がらないんです!昼間病院に行ったら夜には下がる・て言われたのに…!助けてください、ライル兄!!」
叫びにも似たノエルの声が端末越しに響いた。「すぐ行くから住所教えろ」と職業柄からか、すぐに駆けつけるという選択しか俺の頭にはなかった。
ノエルから聞き出した彼女達が住む家に車で向かう。あれほど毛嫌いしていて、ノエルに頼られるのが嫌だったのに。その娘に自分の連絡先を教え、案の定彼女たちに頼られている。そしてそれを苦に思わない自分もいた。“自分”という存在が一体何なのか、分からなくなった。
ほぼ夜中に近い時間だったので道中は暗闇だった。街頭で照らされた薄暗い車道の端に車を止め、教えられた住所を探す。ノエル達の家はすぐに見つかった。郊外のアパート。決してきれいだとはいえない。けれど、ギリギリの生活をしている身としては十分な部屋なのではないだろうか。そんなことを思いながらベルを押せばすぐに扉が開く。泣きそうな顔をしたノエルがそこにはいた。
「ライル兄、助けて!マリアの熱が下がらないんです!」
すぐ部屋に入り、マリアの元に向かう。ベッドに寝かされた小さな子どもの顔色は見るからに悪い。軽く額に掌を当てれば、その尋常じゃなく高い体温が伝わってきた。ただの風邪じゃない。風邪でこんな状態になるか。マリアは時折苦しそうに咳き込み、喉の奥からひゅうひゅうと音を鳴らす。風邪をこじらせて肺炎にかかっているのかもしれない。設備の整った病院に運ぶのが最善の策だろう。
「お願い、ライル兄。この子までいなくなったら、私は…!」
いつも冷静なノエルはどこにいってしまったのか。パニックになって取り乱して。たかが、ひとりの子どものために。
状況が油断を許さぬことだと分かってはいるが、冷静にそう分析している自分がいる。
「ノエル」と、とにかく彼女を落ち着かせようと声を掛けようとした瞬間、ぐっとノエルに腕を掴まれた。その細腕のどこにこんな力があるのかというほど、強い力。
「なんでもするから!お願い!なんでもするから、マリアを助けて…!」
なんでもする・という言葉が妙に頭に響いた。「なんでも、する?」と復唱すれば、「するよ!するから!!」と彼女が頷く。泣きそうな顔をしてこちらを見上げてくる彼女の姿が妙に苛ついて、ひとつ舌打ちをしてマリアの身体を抱き上げた。
「病院に運ぶ。来い」
・・・
自分の勤める病院に急患としてマリアを運び、偶然知り合いの小児科医が当直だったのでその医師にマリアを頼む。案の定肺炎を発症しており、もう少し遅かったら危なかったらしい。その旨をノエルに伝えれば、彼女は絶望と安心というふたつの感情を表情に乗せて、よかった・と、ごめんね・を繰り返し眠るマリアに言い続けていた。自分含め娘の体調管理に関してはノエルの性格上ちゃんとしていたはずだ。そういうことは昔から人一倍厳しかった。
それでもマリアがこんな状態になったのは、きっとマリア自身が自分の体調をぎりぎりまで隠していたのだろう。子どもらしからぬ子ども。母親に心配かけまいと必死に体調のことを気づかれないようにしていたのだろう。健気ながらも、どうしてこんなに小さな子どもが心を砕き気を遣わなければならない世界なのだろう、と憤りを感じる。
大事をとってマリアは入院。付き添いは認められなかったので、渋るノエルを連れて帰る。再び暗闇の中車を走らせながら、助手席に座ったノエルを横目で窺う。意気消沈というか、ひどく落ち込んでいるようだ。無理もない。誰のせいではないといえ、子どもがあんなに苦しんでいたのだ。落ち込まない母親などいない。
「今日は、本当にごめんなさい」
ふいにノエルが呟いた。暗いので彼女の表情のひとつひとつまでは窺えない。ライルは「別に」と一言だけで応じる。「私、最悪だ」とノエルが自嘲するように続けたので、相槌がてら「何故?」と聞いてやる。
「だって、マリアが体調悪かったことに全然気づけなかったんです。それであの子にあんなに苦しい思いさせてたんですよ?…母親、失格です」
あの人にも、怒られます。
彼女が言う「あの人」とは、きっとマリアの父親だろう。この期に及んでまだそんなことを言うノエルに、ずっと募っていた苛立ちと、もどかしさが身体中に駆け巡る。これはなんだ?この感情は。気味が、悪い。
「…お前、何でもするってさっき言ったよな?」
信号が赤になり、横断歩道の手前で車を停めたと同時にライルが問う。一瞬何のことか分からないというように首を傾げたノエルだったが、すぐに「ああ」と頷く。マリアを病院に運ぶ前に、彼女は確かに言った。なんでもするからマリアを助けてと。「確かに、言いましたね」とノエルはもう一度頷いた。
「何でもしますよ。ライル兄は、マリアを助けてくれましたから」
私が出来ることなら・とノエルが曖昧に笑う。正面を見据えていたライルが、ノエルの方へと視線を移す。そして腕を伸ばし、ノエルの後頭部を掴んだ。びくりと彼女の身体が反応する。構わず、ライルは彼女の身体を引き寄せ、無理やり彼女の唇に口付けた。噛みつくようにそれを続ければ、くぐもったようなノエルの声が漏れる。抵抗するように胸を押されるが、男と女の力の差は大きい。
信号が青に変わる。それが合図だったように、ライルはノエルの身体を離して車を進めた。
突然のことに驚くというより放心状態だったノエルは、肩で息をしながら「ライル兄…?」と呟いた。
「お前、なんでもするって言ったよな?」
もう一度、確認するというよりこれは脅しに近かった。変わらず車を走らせながら、ノエルへ横目で視線を投げる。怯えたようにこちらを見ているノエルの姿が本能を刺激する。ライルは片方の口角を上げて、笑った。
「じゃあ、抱かせろ」
突然無茶な要求をされたノエルは、ただ瞠目していた。なんでもする・と言ったのはノエル自身だ。けれど、こんなことを言われるとは思ってもみなかっただろう。それはライル自身にもいえることだ。
自分は何がしたいんだ?彼女を抱きたいなど、今までかつて思ったこともないのに。何故、今?
自分の言葉にさえ疑問を覚え始めたライルだったが、暫しの沈黙の後、ノエルがひとつ頷いた。
「…いいですよ」
その声が、車内に重く響いた。
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