それは六等星の輝き
ふみゃぁ、と弱い泣き声が耳に届き、いつの間にか落ちていた瞼を凪はゆっくりと上げた。睫毛ごしに蛍光灯の光が目に入り、反射的にそれを閉じ掛ける。瞼ひとつの上げ下げすらひどくだるい。それを自覚すると同時に、とてつもない疲労感と倦怠感が全身を襲ってきた。ん…と喉の奥から息と同時に声が漏れる。首を捩りながら肩で息を吐き出すと、今度ははっきりと聞こえた小さな泣き声が凪の意識を完全に微睡の中から引き戻した。
反射的に頭をそちらに向ければ、自分のすぐ隣で小さな手をばたつかせながら泣く赤子が視界に飛び込んできた。その子はふみゃふみゃと泣き声をあげながら、固く閉ざされた瞼の隙間から涙を零していた。ああ、赤子の“泣く”とは、声だけじゃなくて涙も出るんだ、とどこか客観的にその様子を観察している自分がいる。何かを求めて泣き続けている赤子の方に指先を伸ばし、まだ赤みの残るその柔らかな頬を軽く突いた。
「どうしたの…」
囁くように問い掛けながら、その子をじっと見つめる。数時間前まで自分の腹の中にいた子だ。自分の中で生を受け、十月十日かけて大切に育んできた小さな命が、今声を上げ、息をして、ちゃんと人の形をして世界に存在している。それは紛れもない真実なのだけれども、腹の中にいた我が子を実際に見るのはまだ慣れないのかとても不思議で、けれど母性というのだろうか、心の奥底にはその子が愛おしいという感情がじわじわと満ちてきているのも感じる。
今度は赤子の小さな手を突いてみれば、赤子は凪の指を小さな手で握り込んだ。意外と力が強い。生まれたばかりなのにこんなに力があるのかと驚くのと、それが普通のことなのか、それともこの子が“特別”だからなのかわからなくて思わず凪は眉を八の字にした。
生まれた瞬間から、見た目は普通の子だった。
死神の子だといえば誰も疑わない。なんら他の赤子と変わらない姿をしていた。
けれど、この子は死神の子ではない。
死神と破面の子だ。
紛れもない、自分とグリムジョーの子。
種族が違うのに子を成せるなんて考え付きもしなかったし、その可能性が頭によぎったことさえなかった。実際自分の身に起こったにも関わらず、子を産み落とすまで俄に信じがたかったのも事実だ。こんなこと、世界の理から外れているし、この子は一体何者なのかという説明もできない。
ただ、ふみゃふみゃ泣いて自分の指を握りしめる赤子は、異形の姿をしているわけでもなく、生まれながら特別強い霊圧を放ってることもない。本当に普通の子だった。危険因子など、母となった自分の目から見てもかけらほど感じられなかった。
生まれて百十何年経った。
その僅かな期間に二度大戦が起こった。
一度目の大戦で力の大半を失って死にかけた。運良く生き延びて、グリムジョーと虚圏で生きることを選んだ。
そのすぐ後、二度目の大戦で力を取り戻してグリムジョーと共に戦えた。
そしてようやく平穏が訪れたと思った矢先、今度は世界の均衡が崩れて地獄の門が開かれた。
今、外がどうなっているのかはわからない。
強力な結界を張っているという浦原商店に身を寄せどれくらい時間が経っただろう。子が十分に育って生まれるまでの間、尸魂界が、現世が、地獄が、…虚圏がどうなったか知る術はなかった。
『戦えるようになるまで絶対に出てくるな』
そう言って自分をここに無理やり置いていったあの男は、今どこで、誰と、何と戦っているのか。
かつてひとり置いていかれたことに激怒し、彼を追いかけて敵地に向かったこともあった。そのときは二度と置いて行かないと約束させて、一緒に戦った。あれ以来グリムジョーは絶対に自分を置いていくことなどなかったのに。
その彼が半ば無理やり凪を置いていった。
そして凪もそれに従った。
ただひとつの目的のために。子を、守るために。
「…あなたが生まれたこの世界は、昔も今も戦いが続いてて、憎しみや悲しみ、虚しさで覆われていることの方が多いの」
泣き続ける我が子は、まだ生まれたばかりで自分とグリムジョーどちらの特徴をもっているかも判断ができない。
しわくちゃの顔のまま泣いている赤子に、凪は小さな声で語りかけ続ける。
「自分の力じゃどうしようもないこと、やりきれないこと、そんなことばっかり」
藍染に拾われ、利用され続けた百年間。
その闇を取り払ってくれたのは、死神でも人間でもない、本来敵であるはずの破面、グリムジョーだった。
彼と虚圏で生きることを選んで、藍染にやられた傷が元で死神の力をほとんど失って護られるばかりだった私が、また新たな戦いに身を投じることになって力を取り戻した。今度はグリムジョーと一緒に戦えた。
そのどちらの大戦も、終わらせてくれたのは私でも死神でも破面でもない、死神代行の人間だったけれど。
今もきっと、グリムジョーは新しい敵と戦っている。戦うことが生きること。そんな本能のまま動く彼を止めることはできないし、止めるつもりもない。
ただ今回はどうしようもないことだけど、彼の隣で戦えないことは本当にもどかしかった。
「嫌気がさすことの方が多い世界なのは否定しないわ。でもね」
もう片方の腕を伸ばして、その柔らかくて小さな頭にそっと触れる。何度か撫でると掌に感じていた赤子の高い体温が身体に伝わって、その強張りを解いてくれた気がした。
「あなたが何者かなんてどうだっていい、あなたの顔を見たとき、私はこの世界に光が差したように思えたの」
言いながら、頬に涙が伝っているのがわかった。ぽたぽたと瞳から溢れ落ちるそれはシーツに染みをつくっていく。
自分が泣いたからだろうか、代わりに我が子の声とその目からこぼれていた涙が止まった。ゆっくりと世界を確かめるように、生まれてはじめて開かれた子の瞳。薄く開いた奥に見えた瞳の色は、グリムジョーと同じ鮮やかな青色をしていた。
END
(20220529)