双子の月

赤子が生まれた日の夜は、ゆっくり休んで、という織姫の申し出をありがたく受け入れ、ひとり軽くなった腹を抱いて眠っていた。走馬灯のように駆け巡っていた一連の出来事すら掻き消すほどの疲労と睡魔に襲われて、心地よくそれに身を預けたのはずっと前だった気がする。

眠りに落ちた時はかけらほども感じなかったそれ。忘れたことはないけれど、実際に肌で感じるのはとても久しぶり。そんな懐かしさをも覚える霊圧を頭上に感じ、凪はそっと重い瞼を開けた。同時に視界に飛び込んできた色は、いつの間にか大好きになっていた青。じっとこちらを見つめているその瞳の青と視線がぶつかって、自然と笑みが溢れた。

次に会った時は、絶対に殴るか罵倒すると思っていたのに。

今は動けないという前提は置いておいて、そんなことをする気も不思議と無くなってしまっていた。

「…よぉ」

低いその声を聞くのもいつ以来か。この10年、一日も離れることがなかったからか何もかもが懐かしく感じる。口を開いて言葉を発しようとするが、散々声を出したからか、眠りから覚めた直後だからか、喉が掠れて言葉が出てこなかった。漏れる吐息に何かを察したのか、グリムジョーは凪の額にそっと掌を置いた。ああ、なんて心地よい体温。じんわりと伝わる彼の低い体温を目を閉じて堪能する。触れ合うのだって久しぶり。この手を私は欲していたのだ。

「生きてんな」

確かめるようにあえて声に出してグリムジョーは問うてくる。凪はもう一度喉をひらいた。これはちゃんと答えないといけない問いかけだ。

「勝手に殺さないで。…ちゃんと生きてるよ」

覗き込むように凪のすぐそばにあるグリムジョーの顔を見上げながら、額に置かれた掌をとって頬に沿わせる。手の甲に掌を重ねて、その骨張った彼の手と頬から体温を奪ってやる。凪の掠れた声はしっかりと届いたらしい。そうかよ、とグリムジョーは言って、じっと凪を見つめ続けた。

ねえ、聞きたいことあるんでしょう?

そう聞きたかったが、今こうしている時間が惜しくて彼の体温、呼吸音、におい、霊圧、すべてを受け止めて身体に刻み込む。だって彼はまたいってしまう。それがわかっていたから、会話よりも存在を確かめることの方が互いにとって今は重要なことだった。
ただ、自分のことだけではなくて。今はもう自分のことだけじゃ、足りない。
声掠れてるから聞き取りづらくてごめん、と前置きをした上で凪は言葉を紡ぐ。声が、喉が水分を欲していたがそれをする時間さえも惜しかった。

「あのね、藍染に斬られた時よりも、あんたに殴られた時よりも、滅却師に殺されかけた時よりも、ずっとずっと痛かったの」

すり、と彼の手に頬をさらに寄せれば、冷たい金属の感触がした。凪の左の薬指に嵌めているものと同じ色のそれ。戦いの邪魔にはならなかっただろうか。そんなことが頭に過るが、そんなの全てが終わってから聞けばいい。

「今度こそ死ぬかと思ったけど、私、…ちゃんと生きてるから」

ぴくりとグリムジョーの眉が動く。ね、あんたが一番聞きたかったことでしょう?生きていることを確かめにきたんでしょう?…わかってるから。

子が生まれたと知らせを受けて、頑なにこれまで会いにこなかったグリムジョーがここにきたのだ。まだ戦いの途中なのに、凪を起こさないようそっとやってきたのだ。それは子に会いにきたのではない。凪の無事を確かめにきただけ。伝言だけじゃ俄に信じられなくて、触れて確かめるために彼はきた。
だから、目的が終わればまたすぐに戦いに身を投じるだろう。
だからそれまで凪もグリムジョーを確かめる。そこにいることを。互いが生きていることを。

「…そうかよ」

凪が目の前にいて、ちゃんと喋って、その体温を感じて、ようやくグリムジョーは彼女が生きていることを実感できたらしい。安堵の息を吐いて、もう片方の手も凪に添えて彼女の頬を挟む。少しでも体温を感じたいのは凪だけではないらしい。

「まだ戦いは終わってないのよね?」
「ああ、地獄に乗り込むことになるかもな」

淡々と事実のみ述べる彼の言葉に、凪自身ついと飛び出た自分の言葉は予想できるものではなかった。

「私も戦いたい」

子を生むためにずっと隠され、護られてきた。本来なら並んで戦っていたはずなのに。子を産んだばかりで動けないのに戦いたいなんて、本能が戦いたいと叫んでいるのか。なんだかんだ自分は戦士であり王の隣に並ぶ存在なのだと認識せざるを得ない。

「そんな顔色の奴がまともに戦えるかよ」

呆れたようなグリムジョーの声と共に頬の掌が額に伸びて、そっと瞼まで撫でられた。くすぐったさと温かさで自然と目が閉じる。

「寝とけ」

耳馴染みの良い声は再び凪を睡魔へと誘う。まだ眠りたくないのに、それ以上に消耗した体力を睡眠で補おうと本能が必死なのか。眠ってしまいそうになる直前で、脳の奥に先程まで聞いていた赤子の泣き声がちらついた。ふみゃあという小さな小さな泣き声。まだ名前も与えていない、小さな小さな存在。

「ねえ。…あの子に会う?」

グリムジョーの表情は変わらなかった。けれど彼は、あの子、が何を示しているかわからないほど愚かではない。察しが悪いわけでもない。表情を変えないままにグリムジョーは首を横に振って、全部終わってからだ・と短く告げた。
そうだね、あんたはそういう男。
今この部屋にあの子がいなくてよかった。

「…死ぬなよ」

最後に一言そう言って、グリムジョーの手が凪から離れた。凪の返答を待たずに部屋を出ていく。産後の肥立ちが悪いと命の危険はあるが、それを彼が知っているとは思えなかった。ただ、凪の様子に念を押すかのようなその言葉は不器用な彼らしいもの。…なんなら戦いに行くグリムジョーの方が断然死ぬ確率は高いのに。

また二人の間は扉で仕切られた。凪は肩で息を吐き出し、つぶやくように言った。

「死ねないよ」

とても小さな声だったけれど、扉の向こうでグリムジョーが聞いている。そんな気がしてならなかった。


(20220914)