いつか夢に見たように儚く

「そんなの無茶だよ凪さん!」

織姫の答えは安易に予想できていたけれど、それを承知で凪はまっすぐ彼女に言葉をぶつけた。腕には生まれたばかりの我が子がいてすやすやと眠っていたが、それは今は関係ない。ずっと考えていたことがある。子を産み、子に脅威がないとわかったら。考えを行動に移すかどうか決めるのは自分次第。

「妊娠前の状態に戻して欲しいの」

凪はもう一度織姫に同じことを繰り返して言う。出産のダメージは大きい。身体的な傷もそうだが、体力だって根こそぎ奪われる。凪の場合出産自体特殊な状況だったこともあり相応のダメージは負っていた。だから子を産んでからすぐに女は動けない。そんなこと身をもって知っていたし、今だってただ子を抱いて座っているだけでも身体がつらい。それでも、ただ黙って回復を待っていたらいつまでこのままなのか分かったものではない。だから、頼むのだ。織姫が唯一保有するその稀な力。何事も起こる前の状態に返すことのできるその能力。妊娠前の、もとの状態に戻してもらえれば。
私は今すぐにでも戦える。

「いくら双天帰盾でもそんなの無茶だよ、私の力は霊圧を戻すのは時間かかるし、とにかく今は休まなきゃ…」
「身体さえ元に戻りさえすれば、霊圧はすぐ元に戻す」

戻るではない、戻す。
凪は腕の中で身じろぎした赤子に視線を落とし、その小さな背をとんとんと叩いて落ち着かせた。こんな動作も自然にできるようになるほど、自分はいつの間にか母親になってしまっている。それは意識したわけでもない、本能に基づくものなのだろう。言葉を発しようと何度も口を開いては閉じてを繰り返す織姫を困らせたいわけではない。けれど、自分の目的を叶えるためには織姫の力を借りる他ないのだ。

「お願い織姫。私も戦いたいの」

まっすぐ彼女を見つめて頭を下げれば、織姫は「その子はどうするの?」と凪の子を示した。
眉を八の字にして、まだお母さんと離れられないよと言う。子どもを育てている彼女の言うことは正しいし、乳飲み子を置いて生きて戻れるかわからない戦いにいくのは母親失格なのはわかっている。わかっているけれど、心の奥底でずっと私は戦いたいと叫んでいた。あいつの隣で、グリムジョーの隣で戦いたい。彼をひとりで戦わせていることへの罪悪感と焦燥感。私は私の仕事を終えた。育てることも仕事というならそれはこれからが本番だけれど、無事に産んで死なないという第一の目標は達成できた。それなら、次は。どうしても欲張りになってしまうが、子を連れて戦いにはいけない。だから、決めていた。

「あなたに託す」

ひゅ、と織姫が息を呑む音が聞こえた気がした。一勇もいる手前、この戦いに織姫は参戦していない。参戦していない人物の中で最も信頼できて子を預けられるのは彼女だけだ。なんとも都合の良いことを言っているとは自覚しているし、織姫の気持ちは無視してのお願いだ。なんて勝手なのだろうと思わざるを得ないが、彼の隣で戦うという目的を叶えるためにはなりふり構ってられなかった。

「でも、その子は…」

言おうか迷ったのか、目を泳がせながら織姫が口を開く。言わんとしていることを悟って凪は頷いた。何が生まれるかわからない。恐ろしい化け物かもしれない。そう言われながら、世界に対する脅威を持ち合わせた子だったら自分ごと消えると宣言していたくらいだ。生まれてしばらくずっと観察していたが、確信したことがある。この子は脅威どころか。

「この子の脅威はないに等しい。織姫も気づいてるでしょう?」

織姫の顔が強張る。逆に凪は小さく笑った。

「人間の魂魄そのものよ、この子」

姿形も異形めいたものはない、心配していた虚特有の穴もどこにもなかった。しかし逆に、何も持っていなかった。霊力すらほぼ皆無。まるでこれは、人間そのもの。浦原にも同じことを言われて自分の直感は正しかったと確信した。
プラスの魂とマイナスの魂が混じり合ったことで中和されたのだろうか。現世で生まれた子は人間の気配しか感じない。死神も虚も元を正せば人間だ。そう思えばなにひとつ不思議なことはない。

「お願い織姫。絶対死なないし、無茶は…できるだけしない。私を戦わせて」

お願い、ともう一度彼女に乞うた。赤子の寝息だけが響く部屋。織姫、と彼女の名を呼んで懇願する。もう戦えないこの状況には限界を感じていたし、これ以上ここにいれば私自身がだめになる。精神が限界なのは子を産む前の時点でわかっていた。決して離れてはいけないのだ。私とグリムジョーは。王の隣に立つ者として、中途半端な形では参戦できない。だから、お願い・とさらにもう一度織姫に言って頭を下げる。
つう、と頬に何か伝うのを感じた。溢れる涙は思いの大きさと同じなのか。自然にとめどなく溢れ続ける涙が赤子にもかかる。瞼を少し動かした赤子は起きることなく眠り続けていた。
その様子を黙って見ていた織姫は、意を決したようにきゅっと口を結んだ。

「…絶対、無理しないで」

距離を詰めた織姫は、凪の腕から赤子を受け取る。慣れた手つきでその子を抱きしめて、ごめんねと声をかけた。

私がかけなければならない言葉なのに。
それを彼女に言わせてしまったことに対する胸のちくりとした痛みと、これで戦えるという高揚感と、感情が混迷してまた涙が溢れた。


待っててグリムジョー。
もうすぐ私はあなたの隣で戦えるようになる。


織姫に抱かれた我が子の頬を、指先でそっと触れる。そう、あなたは何も知らないまま眠っていなさい。人間として生まれてきた子は、虚圏には連れていけない。そう遠くない未来に、私たちは離れ離れになる。それを思うとぐっと胸が締めつけられた。それでも、それでも。

私は子といられる時間を捨てて戦いに行くのだ。
グリムジョーの隣にいたいという思いと、…子が生きる世界を護るために。


(20220920)