涙を流す理由を頂戴
それは唐突に私の中に現れて、ものすごい速さでその事実を突きつけていった。
あまりにも青天の霹靂すぎて、予想だにできなかったことだった。
けれど、それは確かに形ある真実で。
私はただ考えることを放棄したくてたまらなかったことを、今でも鮮明に覚えている。
・・・
最近やたら眠い上に胃の辺りが不快で気持ち悪い。日中睡魔に負けて寝てしまっているからか夜中に何度も目が覚める。そして胃の不快感を覚えるたびに、グリムジョーに気づかれないようにそっとベッドを抜け出して、嘔吐しに行く回数もずっと増えた気がしているのは気のせいではないだろう。風邪でも引いたのかとはじめは思った。胃腸からくる風邪だと思って様子を見ていたのだが、どうも治るどころか症状は悪化していて日中は睡魔に襲われっぱなし。なんなのだろうこれは、とひとり悶々と悩んでいれば、グリムジョーにも、最近寝てばかりだな、と呆れられる始末。10年分の疲れでも出たのかとはじめは呑気に考えていたが、月のものがきていないと気付いた時、さっと血の気が引いたのを確かに感じてしまった。
自分には関係のない話だと思っていたけれど、女だからか、それに関する知識はそれなりはあった。だからその可能性に気付いた時はまさかと思ったが、虚圏にそれを確かめる術はない。尸魂界にいって誰かに診てもらう選択肢もなかった。だから義骸に入った状態でわかるかどうかは一種の賭けだったけれど、現世で調達した検査薬というもので確かめれば予想は的中。
妊娠している。
突きつけられた事実は紛れもなく真実なのだろうけれど、そんなことあり得るのか?自問自答するが答えは出ないし出る気もしなかった。
「待ってよ…」
頭を抱え、自分の身に起きたことを反芻する。
今、私は妊娠している。ここに、子がいる。
誰の子?そんなの決まってる。グリムジョーしかいない。この10年、その熱を身体に受け続けている。それは他の誰でもない、あの破面だ。
種族の壁は?自分は死神であいつは虚。そんなことありえるのか?なんて答えの出ない問答を繰り返し思っていたら、いつの間にか現世は夜になっていた。
「いますね」
目を細めて言ってきたのは浦原だった。誰に言えばいいのかわからなくて、そのまま虚圏にふらふら帰ろうとした凪の前に現れた彼は、凪の様子のおかしさから彼女を引き留め浦原商店の一室に誘った。
そして凪が耐えきれず一言、「子どもができたかもしれない」と告げれば、彼は霊視するかのように凪を見つめてそう言ったのだ。
「凪さんの中にもうひとつ霊圧があります」
ああ、確定だ。彼がいうなら間違いないのだろう。さぁ…とまた血の気が引いた。
「相手は、聞くまでもないっすね?」
「…こんなこと、ありえるの?」
「アタシが知る限り、ないですね」
種族の壁を超えて、この身に何かが宿っている。大丈夫ですか?と聞かれるが、何が?としか返せなかった。体調のことか?…心のことか?わからない。何もかもがわからないしわかりたくなかった。らしくないながらに混乱していることは自覚できた。
「一旦帰ります。…グリムジョーに言わなきゃ」
頭の奥がずきずきしていて、これはきっと極度の緊張と混乱からくるものだと悟った。「アタシも調べておきます」と言いながら浦原は黒腔を開けてくれ、気をつけて、と告げた。
何を気をつけるのだろう、と凪は自嘲しながら黒腔に足を踏み入れる。いつもなら綺麗に作られる霊圧の道が、今日はガタガタだ。動揺している様がこんなところにも表れている。滑稽すぎて。
腹を思わず抱えて、また襲いくる気持ち悪さに立ち止まる。黒腔の中で嘔吐なんてしたらどうなるのかわからない。手で口を覆ったまま出口を目指す。いつの間にか白い世界が眼前に広がっていて。虚圏に帰りついたことに気付いたのは、黒腔から抜けた瞬間膝から崩れ落ちてその場で嘔吐したときだった。
これは悪阻というやつか。
はじめてこの症状の所以がわかった。
どうしよう、と頭の中に動揺が広がる。ひとしきり吐いて、口元を乱暴に拭って家路に着く。帰り慣れた宮の扉を潜れば、ふわっとその霊圧が全身に浴びせられた。
「よぉ、遅かったな」
部屋の奥にいたグリムジョーの霊圧を浴びて、安堵に包まれると同時にひどい罪悪感に襲われた。どうしよう、という子どもみたいな思考が頭を覆いつくしていて、揺れる凪の表情とガタガタの霊圧を訝しんだのか、グリムジョーは眉を顰めた。
「凪。てめぇ、顔色やべえぞ」
距離を詰めてきたグリムジョーを前に、一歩後ろに後退る。それに対してグリムジョーはさらに怪訝な顔をして、どうした、と凪を見下ろした。
「べ、別に…」
「なんかあったろ」
凪を見下ろしたままグリムジョーは問いかける。問いかけるなんて生優しいものではない。とっとと吐け、と尋問じみたそれをぶつけられて、凪は何を…と咄嗟に目を背けた。
「体調悪いんならふらついてねえで寝ろよ。つってもてめえ最近寝てばっかだけどな」
頭をくしゃりと撫でられて、グリムジョーはそれ以上何も問い詰めることなく踵を返す。珍しい。とっとと吐けと言われたのに、いつもなら無理やりにでも凪が白状するまで問い詰めるのに。
なんで今日に限って。
部屋の奥のソファに戻ろうとした彼の背に向かって、凪は思わず、待って・と声を投げた。
「グリムジョー、…」
彼の名に続いて、どうしよう、という言葉が発せられて、グリムジョーは訝しんだ表情で凪の方を振り返る。
「あん?」
凪は腹を抱えてグリムジョーを見上げる。そして何も考えずにただその事実を口にした。
「子が、…子どもが、できた」
その深刻な表情と声音は凪らしくなかった。グリムジョーは、は?と声をこぼす。切れ長の目は大きく見開かれて、凪をじっと見つめていた。
「てめえ、何を」
「本当なの、ここに子がいるの」
腹に手を置いた凪はさらに深刻なそれと不安な色をのせた表情でグリムジョーを見つめる。何か言って。お願い。そう心の中で念じるのは、この奇妙なほど緊張感漂う空気に耐えきれないからか。グリムジョーは何を思っているのか。
そんなことを思考を手放しかけた頭の中で思った時、グリムジョーは何度か口を開いたり閉じたりした後、声を発した。
「…誰の子だよ」
本来なら鈍器で殴られなような感覚がするくらいの言葉を投げかけられたという自覚はある。けれど不思議とそんなこと一切なくて、すんなりと彼のその言葉は凪の中に落ちてきた。
普通そう思うわよね、と妙に冷静な自分がいる。
凪は、なぜか泣きそうになる自分の感情を殺して、グリムジョーをじっと見つめた。溢れそうな感情は瞳に移る。だめ、零れ落ちないで。そう念じながら、凪は震える声で言葉を紡ぐ。
「そんなの、あんたしかいない」
また一層グリムジョーの目が開かれた。あまりに居た堪れなくなって、凪は踵を返すと同時に瞬歩で宮から出た。後ろからグリムジョーが呼び止める声が聞こえた気がしたけど、今あいつの前で泣くのはおかしいし、この泣きそうな感情はどこからくるものかもわからない。
私は、何を宿しているの?
わからない、わからない、わからない。
助けて。
助けてと祈った心の奥に見えたのは、さっきまで目の前にいた男の姿だった。
(20221202)