崩壊の音
それはなんの前触れもなくはじまったと記憶している。
とはいってもその頃の私ときたら、他のことを気に留めたり考える心の余裕など隙間もなくて、弱さを見せることに躊躇いを抱かないほどにグリムジョーに寄りかかっていたと思う。グリムジョーはそんな私に愛想を尽かすことも邪険に扱うこともせず、ただ黙ってそばにいてくれた。そんなことも私は気づくことすら出来ず、ただひとり闇の中に篭ってばかりで、世界がまた崩壊の危機に瀕していることなどかけらも気づいていなかったのだった。
子がいるとわかって暫くしてから悪阻というやつがどんどんひどくなっていって、答えを探すために虚圏を駆けたり尸魂界や現世に赴く体力さえ尽きていた。体調だけでなく気力が削がれてしまっていることも相まって、どこかに出歩くこともせず、ほとんどを宮に引きこもって息を殺すように過ごしていた。自分の腹に子がいるという想像だにしていなかった現実に対する動揺と、この先どうするかという答えの出ない自問自答の繰り返し。薄いシーツを身体に巻いて、ベッドに沈んだまま固く目を閉じていた。
「なんか食えよ」
そっと頭に何か触れる気配がして薄らと目を開ければ、ベッドに座ってこちらを覗き込むグリムジョーと目が合った。
そんな優しい言葉をかけてくれるなんて、あんたらしくないじゃない。
そんな軽口すらきけないほど全てが奪われていた。小さく首を横に振ってまた目を閉じる。凪の様子から状況を汲み取ったグリムジョーはひとつ息を吐いて凪の頭を撫でる。不器用でぎこちない。けれどどこか心地よい。やっぱり触れ合っていないとおかしくなるんだな私たちは、と胸の奥で何かが落ちて、思わずグリムジョーの大きな掌をとって胸に抱く。温もりを感じてそれを少しずつ自分に移していく。心地よい。ずっとこのままでいいのに。全てを捨ててこのまま彼の熱を感じていられたら。そんなことを思って部屋に響く時計の針の音を聞きながら、刻一刻と時間が過ぎるのを感じていた。
グリムジョーの手が胸の中から消えているのに気づいたのは、そこから大分時間が経ってからだったと思う。
気絶するように眠りに落ちて、また胃の不快感で目が覚める。ふらふらしながらベッドから這い出て吐きに行く。胃の中は空っぽなのに吐き気を覚えるなんて意味がわからない。吐くものがないのに吐き気は止まらないから、水を一気に飲むことで増した気持ち悪さと一緒に吐き出した。喉が焼けつくように痛い。胃酸を吐くのも珍しくないので、またかと思いながら何度も嘔吐する。波が去ってから口を濯ぎ、ベッドに戻ろうと廊下を歩いている時だった。
グリムジョー以外の霊圧を感じて足を止める。この霊圧を知っている。なんでここに?と訝しみながら宮の入り口へと向かえば、そこには思った通りの人物が。
「…浦原さん?」
「…体調、悪そうっすね」
宮の入り口に立っていた浦原に、いつもの飄々とした気配は一切ない。何故虚圏に?と疑問が過るがうまく言葉にならなかった。凪の土色の顔を見て体調を気遣ってくれているような言葉を発した浦原だが、それどころではない何かを纏っていて。彼のそばに立つグリムジョーも、凪の姿をみとめ顔を上げる。その表情は険しい。
「なに?何かあったの?」
壁にもたれるように身体を預けてふたりを見る。自分の足で立っていることも今は辛いのだ。ふらつく足を叱咤しその場にとどまろうとすれば、足早に近づいてきたグリムジョーに抱き抱えられるように身体を支えられる。当たり前のような振る舞いをするグリムジョーだが、その表情は険しいまま変わらない。視線を凪に落とした後、何か言いたげな瞳を陰らした。その様子は、何かが起こったことを十分に暗示させていて。
グリムジョーの腕にすがりながら、鈍った意識を本能的に集中させる。…ざらりとした気持ち悪さが、虚圏に漂っている、気がした。
「待って、なにこの気配」
グリムジョーを見上げて視線を合わすが、彼は答えない。代わりにグリムジョーの肩越しに浦原を伺う。禍々しいなにかが虚圏にいる。それは数体なんて生やさしいものではない。知らない気配。霊圧は感じない。けれどいる。それは大量に、どこかからか湧き出るように。ガンガンと頭が痛んだ。気持ち悪い。
喉が詰まる不快感を感じた瞬間、不意に目の前を黒いものが横切った。え?と顔をあげれば、大気に突如現れた無数の黒い物質が視界に飛び込んできた。ふわふわと漂うそれは綿のように見えたが、それ同士がぶつかりあう度にねちゃりという音がして、実際は粘着質なものなのだとわかる。
霊子?違う。これは。
う、とまた吐き気が襲う。思わず口を掌で覆った瞬間、身体がくの字に折れた。
「おい、」
グリムジョーが凪を支える腕に力を入れて倒れかけた凪を抱き止める。その腕に縋りながら必死に吐き気をこらえて霞む視界をなんとか保つ。悪阻とは別の気持ち悪さ。禍々しいものにあてられたときに感じる不快感。これまでに感じたことのないおどろおどろしいなにか。
「凪、てめえ寝てろ」
無理やり抱えられてその場から離されそうになるのを制止する。ちょっと待って、とグリムジョーの腕に思わず爪を立ててしまった。けれど今は、黙って寝ていられる状況ではないことくらいわかっている。わかってしまった。
「浦原さん、これって…」
尸魂界、現世、そして虚圏。三界のどこにもなかったこの気配。どこから、溢れた?
ひとつだけ、頭によぎった場所がある。そんな、まさか。
問うような凪の視線を受けて、浦原は小さく頷いた。
「地獄の門が、開かれました」
鈍器で頭を殴られたような衝撃が身体に走った。世界の均衡が、崩れる。口の中で小さく呟いて、グリムジョーとの間に揺蕩う黒い物質…地獄の燐気を呆然と見つめた。グリムジョーの腕に縋る指は、無意識に力が入って。そしてまたこれも無意識のままに、子が宿っている腹を抱くように腕を回した。燐気ごしに見えたグリムジョーの顔は険しいまま。青の瞳はじっとこちらを見つめていた。
(20230322)