そこは優しい奈落

ぴぴ、と無機質な機械音が不気味なくらいの静寂に包まれていた空間に響く。

「うるせえぞ」

壁に背を預けたまま、音がした方に顔を向けることなく言ってやった。イライラすんなよ、と黒崎がため息混じりに声を投げてくるが、それに対してもうるせえと一蹴してやる。
地獄の門とやらが開かれて世界の均衡が崩れ、また虚圏が壊れかけている。戦いに身を置くのは苦ではなくむしろ悦びの方が断然優っているが、ここ数年は戦いの連続で、とにかく訳の分からないやつらが増えたなとぼんやり思った。

敵の血がこべりついた爪を眺めながら、柄にもなくいつも隣にいた女のことを思い出す。無理やり現世に置いてきてから何月も経った。その間連絡などとっていないし(むしろ今のあいつに余計な情報は入れたくなかった)、あいつは今俺が生きているかどうかすら知る術はない。それは同時に自分もあいつが無事なのか知る術がないことを意味しているが。

『ここに子がいる』

珍しく不安の色を瞳にのせたままそう告げてきた凪の声は少し震えていて。腹に添えられた凪の手は白く、その腹はまだ膨らみすらなかった。
そもそも種族が違う俺たちに子孫が残せるなんて考えたこともなかったし、はじめは何かの冗談で、嘘だと思った。誰の子だよ・と思わず出た言葉に(我ながら最低なことを言った自覚はある)、凪は声を荒げ怒ることもせず、ただ唇を震わせながら、あんたしかいない・と告げた。それでこれは冗談でも何でもない、本当に今起こっていることだと自覚できた。

何が生まれてくるかわからない、と凪は呟き、思い詰めた表情で、私の子であることは間違いないから始末は自分でつけるとまで言ってきた。
その時点で彼女も相当混乱していることがわかったし、俺自身なんと声をかけていいか、どうしたらいいか何も出てこなかった。

そんな矢先に、世界の均衡が崩れた。

現世の浦原から凪にその情報が知らされ、このままだと虚圏がまた崩壊すると言われた。虚圏だけではない、世界そのものの均衡が崩れて今度こそどうなるかわからない、と。

斬っても斬っても溢れ出でる地獄の餓鬼共や、かつて自分が葬った破面や滅却師を倒し続け、何をどうすればこの状況が収束するのか誰もわからないままに戦い続けていた。
現世の黒崎と行動を共にしているのは偶々だ。かつて死神の総隊長と結んだ不可侵同盟。あれがまた戻ってきたのは、自分達の世界を護るという利害関係が一致したから。
そして、浦原との契約。
今回は自分からそれを持ちかけた。

『凪を保護しろ。凪が生きてる間は俺もてめえらと戦ってやる』

凪の肩を掴んだまま浦原にそう言い放った時、凪はこれでもかと目を見開いて自分を見上げていた。身重の女を戦場に連れて行く趣味はない。その時一番安全なのは、癪だが浦原の庇護下しか思いつかなかった。

『戦えるようになるまで絶対に出てくるな』

そう凪に言い捨てて、何かを言おうとした彼女を結界を張っているという浦原商店の部屋に押し込んだ。珍しいくらい不安げな瞳でこちらを見上げ、何か言いかけた凪の言葉を待つことなく扉を閉めた。
ぴしゃりと鳴ったその音は今も耳にこべりついてて消えることはない。
あれ以来、凪とは会っていない。

凪から何が出てくるのかとか、そんなこと正直どうでもよかった。
凪が死ななければそれでいい。後はどうでもいい。虚圏さえあればこれまで通り生き続けられる。虚圏を護るために、俺も、ハリベルもネリエルも、死神たちと共闘している。
歪な形であろうがなりふり構っていられる状況ではなかった。

『てめえが生きてりゃそれでいい』

扉越しに、最後に凪にかけた言葉は自分らしくないのは自覚できた。ただそれが本心であることは癪だが間違いない。息を呑むように扉の向こうから凪が返答に窮している気配がしていた。だからそれを待つことなくそこを離れたのだ。
最後に見たのがあんなに揺れた凪の顔だったからか、何度も見てきた勝ち気で生意気なあの女の顔がどこか記憶から薄らいでしまっている。調子が狂う。反射的に舌打ちをして無機質な天井を見上げた時だった。

「グリムジョー」

いつの間にか近くにきていた黒崎が、手の中にあった端末とやらを差し出してくる。
訝しみながらもそれを受け取ることはせず、なんだよ、と黒崎を睨めば、見ろ・と短く告げられた。
ああ?と声が思わず出たが、言われるまま示された端末に目をやった。

上から文字を追えば、浦原から黒崎に宛てられたものだと推察できた。グリムジョーさんに伝言です、と書かれたその後。そこに表示されていた短い文字が飛び込んできて、思わず眼を瞠った。
何度も何度もその文字を繰り返し追う。それは脳内で、凪の声で再生された。

ー生まれた。私も子もちゃんと生きてるー

「…生きてんのか」

ぽつりと出てきた言葉は、消え入りそうなくらい小さかった。次いで深く息が吐き出されて、それはどんな感情が混じっているのか自分でもわからなかった。しかしとっくに無くしたはずの胸の奥で、安堵にも似た何かが溢れ出るのを感じた。

そうか、と呟きながら思わず額を手で覆えば、頭上から黒崎が「良かったな」と声を投げてくる。何がだよ、と睨みながら黒崎を見上げれば、黒崎は俺も親だからわかるんだよ、と短く告げた。

親とか子とか、まだ実感もないし、正直そんなことどうでもよかった。そんなこと声に出してしまえばそれこそ凪に鬼の如く罵倒され殺されてしまいそうだが。

ただ、凪が今も生きている。
その事実だけで俺は十分だった。


END
(20220611)