ふぅふぅと、痛みを逃すように息を細かく吐いて、また襲ってくる激痛に必死に耐える。喉の奥から自分のものとは思えない呻き声にも似た音が漏れる。ぎゅっと握ったシーツは大きく皺が寄って、顎に伝う汗だか涙だかわからない水分がぽたりと落ちた。

思えば前触れはあった気がする。

産み月まであとひと月以上あるだろうと言われていたが、ここ最近ずっと腹が張っていた。腹が張るのはよくあったし、産み月が近づくとそうなるものだと思い込んでいた。何せこんなに腹が膨らんでいるのだ、張りくらい感じるだろうとも。ちくちくした痛みもあった気がするが、それも内臓が圧迫されて骨が軋んでいるのだろうと、もしくは子が動きまわるから子宮が押されて伸縮しているのだろうと思っていた。
それが陣痛の前触れだったと気づいたのは、実際に耐え難い激痛が襲ってきてからだった。

その日はとても蒸し暑かった。

「現世に地獄の餓鬼が襲来しています。アタシも出ます」

珍しく切羽詰まった顔をした浦原がそう告げて出ていったのは半日前のこと。彼が前線に出るのは珍しいが、それだけ逼迫した状況なのだろう。日に日に地獄との戦いは激しさを増している。外には出られないし、実際その戦いの様を見ることはできないが、外から複数の霊圧がぶつかり合う気配は感じることができて、その度に心臓がギュッと掴まれる感覚がしていた。いつもあの男の霊圧を探るが感じることはできなかった。そばにいないことがわかると不思議ととても寂しくて。寂しいなんて感情、ほとんど覚えたことはなかったのに、これも子を宿したことによるホルモンバランスというもののせいか。

こちらの霊圧は結界があるから外に漏れることはない。
今自分の霊圧はガタガタに崩れている自信があった。

浦原を見送って浦原商店にひとり残され、ひとりになるのは久しぶりだななんて思っていた時だった。窓辺に近づき空を見上げて、空の色とは別の青い色がそばにいないか探すなんて自分らしくないことをしていたとき。パチン、という破裂音が体内からして、ぎょっとした瞬間足に生ぬるいものが伝っていた。破水、という単語が脳裏によぎり、足元に水溜まりができていくのを呆然と眺めていたら、じわじわとした痛みが腹を走るようになり、飛び込んだ自室でとうとう動けなくなった。畳が汚れる、と、敷きっぱなしにしていた布団の上に移動して(布団だって汚れるのに、そんなこと考える余裕はなかった)落ち着こうと腰を下ろそうとした時、ずきんと刺すような痛みが全身を貫き、その場に突っ伏した。

痛い、痛い、痛い

これまで負ってきたどの傷よりも痛い。痛みの波が去ったかと思えばまたすぐ襲ってきて。事前に入れた知識の引き出しをひっくり返して陣痛について思い出そうとするが、痛みが邪魔をしてうまくいかない。そもそもまだ産み月は先のはずだ。しかしもう生まれると本能で察して。痛みの波が引くたびに息を整えながら思考を回転させる。しかしそれも等間隔に押し寄せる痛みにまた思考は奪われて、ただただ呻くことしかできなかった。

ひとりのときに生まれるなんて。
まるで、死に際はひとりになるという猫のようだ。

痛みで麻痺した頭はうまく回らなくて、襲いかかる痛みはどんどん増していくし痛みの感覚は短くなってきている。こんなに早く進むものなのかとも思うが、腹の子は普通じゃない。死神と破面の子だ。普通は通用しない。なんなら今すぐ腹を破って出てくる可能性だってある。無事に産めるかどうかより、生まれたらこの子が脅威をもつものなのかどうか見極めて、それ相応の対応をしなければならない。ぎりっと奥歯が鳴って、凪はまた襲いくる痛みに目を閉じて耐えた。

ねえ、グリムジョー。

心の中で、ずっと会っていない男の名を呼ぶ。
もやがかった脳裏に焼きついている彼の姿は、難なく思い出すことができた。

あなたは今どこでなにをしているの?

問いかけても記憶の中のグリムジョーは返事をしてくれない。
私を置いて戦いに行って、何が生まれてくるかわからないのにとにかく死ぬなと言い残して、本当に勝手なやつ。
一度も顔を見にくることもなく、どこかでのたれ死んでないといいのだけれど。

ぎゅっとまた全身に力が入る。腕が身体を支えられず、上半身がシーツの上に落ちた。

「…痛、い…!」

落ちた頬がシーツに擦れる。摩擦も痛いが、それ以上に腹が痛い。腰も痛い。力みすぎて足が攣って、それも痛い。息が上手く吸えなくて、浅く呼吸を繰り返す。ばらばらと顔にまとわりつく髪が邪魔だ。結う時間もなかったし、今やれと言われても腕がもう上がらない。そんな気力はなかった。

「グリムジョー…!」

泣きながら、思わず音になって転がり出てきたその名前。何度も何度もグリムジョーの名前を呼ぶ。お願い、助けて。痛みに耐えながらその名を繰り返す。らしくないのは分かっているが、そんなこと気に留める余裕なんて今はない。
ひとりで子を産む。それはずっと昔、当たり前のことだった。今だって動物は誰の助けも借りず子を産む。それなら私もできないことはない、はず。それでもひとりは心細かった。寂しいなんて思ったことほとんどないのに、今は心細くて寂しくて、誰でもいいから大丈夫だと言って欲しかった。…嘘。誰でもいいなんてこと、ない。優しい言葉はかけてくれないと思うし、何かできるかと言われたらできないことしかないと思う。それでもそばにいてほしかった。そばにいて、その霊圧を浴びせてくれるだけでよかった。安心させて欲しかった。
ふうふうと浅い呼吸を繰り返しながら、絶叫が喉から発せられる。ああ、これは喉が痛む発声の仕方だ。もうひとりの自分が冷静に言いながらも、呻き声だけでおさまらなくなった声が部屋の中に響き渡る。叫び声に泣き声が混じる。たすけて、いたい、グリムジョー、たすけて。
うわごとのようにグリムジョーの名を呼ぶ。答えてくれる声はない。

どれだけ時間が経ったかわからない。痛みで気絶して、また痛みで目が覚める。それを何度も繰り返した頃。先ほどまでと違う痛みと圧迫感を感じて、ひっと喉から声が漏れた。

ああ、生まれる。生んでしまう。

ぐ、と力が入って、地の底を這うような声が自分から発せられた。

途端、真っ白になる頭の中。
虚夜宮だ。まだ崩れる前の広い廊下をふたりで歩いた。
砂漠の中を彼を探して歩き回った。消えそうな身体で、血だらけの彼の元に辿り着いた。
生かされた後も何度も体は消えかけて、その度にグリムジョーに助けられた。
滅却師襲来時にはまた死にかけて、修行をして力を戻した。
それから10年。いろんなことがあった。
端正な横顔に向かってその名を呼ぶ。振り返ってくれたグリムジョーに、私は耳打ちをする。彼は少し困ったように小さく笑い、幼子にするように頭をくしゃっと撫でてくれた。

今度は、私が撫でる番。

ふみゃぁ、という泣き声が耳に届いて、凪は正気に戻る。鉄の匂いががして、視線を動かすと真っ赤に染まったシーツが飛び込んできた。その上に。ふみゃふみゃ泣く小さな存在。凪は萎えた腕に力を込めて、身体を反転させる。反転させようとした時、その小さな存在と自分を繋ぐものが突っ張った。臍の緒が、自分とその子を繋いでいる。その時、ああ、生まれたんだ、と、はじめてその事実を認識した。

臍の緒を切らないように注意しながら身体の向きを変えて、赤子を視界に入れる。ふみゃふみゃと手足をばたつかせて泣き続けるその子の頬を撫でる。は、と気づいて汚れていないシーツを手繰り寄せてその小さな身体を包んでやる。

「ごめんね、寒いよね」

息も絶え絶えの中無意識に赤子に話しかけて、泣く子の汚れた顔をシーツで拭って、そっと抱き上げた。

萎えたはずの腕は、決して落とさないというかのようにその子を包み込んだ。

ふみゃふみゃ泣き続ける我が子を、凪はぎゅっと抱きしめた。
とめどなく溢れる涙と、我慢できずに漏れる嗚咽。脅威があるのかないのかなんて確認することも忘れていた。抱きしめて泣き続けて、ふらついて身体をシーツに沈める。子を抱きしめたまま、目を閉じた。

グリムジョー。
私生きてるよ。

泣き続ける子をかき抱いて、そのまま意識を手放した。耳元で響き渡る子の泣き声が、なぜかとても愛しくて心地良かった。


(20230731)