the sky is falling

ばたん、と乱暴に扉が閉まる音がした。
凪は悟られないように小さく息を吐きながら、すっぽり身体を覆っていたマントを脱ぐ。手の中に収められたマントは軽いはずなのにずっしり心に積もり落ちた。それはまるで自分を覆っている見えない帳のようで。
随分前にこの宮を飛び出した気がしていたが、それは時間にすると半日どころかたった数刻前の出来事だった。何なら自分の身に起こったことが判明してから一日も経っていない。目まぐるしい展開を思い出し、頭がぐらついた。
ハリベルの宮に迎えにきたグリムジョーはただ一言、帰るぞ・と凪に告げた。凪はグリムジョーの表情を見ることができなかった。声音からも何も察することができなくて、ただただあまり彼に対して感じたことのない恐怖心が満ちていくことに名のない恐れを抱いていた。
ハリベルに送り出されて、抵抗する間もなくグリムジョーに抱えられて自分たちの宮に戻ってきた。自分で歩ける、と抱えられた瞬間進言したが、どの顔色した奴がほざいてやがる・と却下された。響転で連れて帰された宮の前で身体を解放されると同時にグリムジョーの手によって扉が開けられる。すべてされるがまま。彼との間に流れる空気がぴりついていて居心地が悪すぎるのと、彼が何を考えているかわからないことに対する気まずさと。この後の展開が全く読めず、じんわりと背中に冷や汗が滲んだ感触がした。

「座れ」

扉を閉めて部屋の中に進んできたグリムジョーは、顎でソファをしめす。先に自分が乱暴に座り、凪をまっすぐ見て彼女に行動を促す。凪はそれに逆らう理由も気力も見つけられず、黙ってグリムジョーの隣に座った。…きもち、ほんの少しだけ距離を取って。

「てめえ、話の途中で飛び出すんじゃねえ」
「…ごめん」

不機嫌そうな声に素直に謝れば、グリムジョーは大袈裟に思えるくらい大きなため息をついてみせた。普段ならそんな態度をとられたものなら苛立ちのひとつやふたつ湧いてくるのに、今日はそんなものかけらも抱く暇がなかった。逆に先ほどから恐怖という二文字の感情が心を支配していて、戸惑いと畏れとで混乱する。何に対する恐怖?自分の置かれた未知の状況に?目の前の男に何を言われるかわからないから?とにかく全てがわからない。
凪は肺の中を空っぽにするように細く長く息を吐き出して、目を閉じる。ハリベルと交わした会話を思い出す。その時思ったことは何だったか。…最後は自分で責任を取る。そうだ、これだけが今の自分の中にあるものだ。

「ハリベルと何話した」

じっとグリムジョーの視線が据えられているのを気配で感じる。しかしまだそちらに向くことはできない。ぎゅっと腿の上で握った掌を見つめながら、乾いて今にも切れそうな唇を開いた。

「虚も子どもを作ろうと思えば作れるってことと、私達も元を辿れば人間で、霊子で構成されているんだから、…その、」

うまく核心部分の言葉が繋げなくて言いあぐねていれば、痺れを切らしたのかグリムジョーが「ガキができても不思議じゃねえってか?」と代弁してくれた。それに黙って頷けば、そうかよ、とグリムジョーが天を仰いだ気配がした。

「何かの間違いだろ」

ぽつりと溢された低い声に、思わず伏せた目をぎゅっと閉じた。そう思ったよ、私だって。それは言葉にならなかった。

「ハリベルの言うことだって仮定だろうが。てめえ、どっかの死神に抱かれでもしたか?」

はっと鼻で笑ったグリムジョーの言葉に鈍器で頭を殴られた感覚がした。誰の子だとも聞かれた。グリムジョーは信じていない。否、信じているからこそこの事実を受け入れ難く様々な思考が巡っているからこそなのだろう。

「さっきも言ったけど、残念ながら心当たりはあんたしかないの」

努めてはっきりと自分の中の事実を伝えれば、彼はその答えが返ってくることを予期していたのか、だろうな、と嘆息混じりに呟いた。

彼の子がここにいるのは事実だ。浦原にも確認してもらった。どうしたらいいかわからない、わからないけれど、『お前がしたいようにすればいい』と言ってくれたハリベルの言葉が頭に響く。何が生まれてくるかわからないし、産む産まないの選択は私ができる。だってこの子は私の子だもの。責任は、私が取る。

「これから私も調べるけど、知る限り死神と破面の子なんて歴史上存在していないと思う。だから私が孕んだのは化け物かもしれないし、今この瞬間に腹を突き破って出てくるかもしれない。でも、最後は私がちゃんと責任を取るから」

グリムジョーを見上げてそう告げれば、彼は真正面を向いたまま眉間に大きく皺を寄せていた。そして視線を合わせることなく、ただ短くそうかよ、とだけ言った。好きにしろということか。話は終わりだとばかりに立ち上がる彼を追いかける体力と気力ももうなかった。全てがどうでも良くなりそうになるのをなんとか堪えて、自室へと向かう彼の背を目で追う。
その背が止まってこちらを振り向いて、何か言ってくれることを期待している自分もいた。けれど、何も言わないでほしいとも思った。
だって、わからないもの。ここにいるのは間違いなくグリムジョーの子だということだけで、何が生まれてくるかわからないのに、一緒に背負ってなんて言えるわけがない。

「好きにしろ。てめえが決めたことに俺は口出しはしねえ」

こちらを一切見ずに告げられた言葉は、拒絶だった。一緒に考えて欲しかったり、悩んで欲しかったり、そんなこと一抹も望んでいなかったはずなのに。なぜか心にぽっかり穴が空いた気がして、これは虚にある穴と同じものなのかと一瞬錯覚しかけたくらいだった。

「…そうね」

力なく呟いた声にグリムジョーは反応したのか、足を止めた。そして凪の方を振り向くことなく、小さな声で独りごちるようにその言葉を落としていった。

「…てめえが…、…いい」

あまりにも彼に似つかわしくない小さな声だったので全てを聞き取ることができなかった。え?と聞き返そうとしたが、グリムジョーは自室へと大きな音を立てて入ってそのまま出てこなかった。
ソファに座って思わずその手を彼の部屋の方に伸ばすが、何も掴むことすらできずそっとおろす。

「…好きにしろ、ね」

好きにしたくてもその答えが出ていないのに、どうしたらいいの。
そんな簡単な問いかけすらできなくて、きっと聞いても彼は答えてくれないだろう。
そっとソファにもたれて天を仰ぐ。自然とおろした手は腹に置いていて、無情にも私はただひとりこの腹の子に向き合わなければならないことを実感していた。

(20230827)