優しい世界
虚圏はその名の通り、虚が住む世界だ。
虚の主食は魂魄だから、虚以外の種族が必要とする食糧や素材はあってないに等しい。勿論虚圏特有の雪草や大蜥蜴などをうまく調理すれば見た目は奇抜でも意外と食べられるものになるのだが、同じものをずっと食べ続けるのも飽きるし、やっぱりたまには普通の食事も欲してしまう。
とはいえ食糧調達のために今更尸魂界に我が物顔で出入りするのは癪だし小っ恥ずかしい(京楽隊長はいつでも帰っておいでと言ってくれているが、私にとって帰る場所は虚圏だけだ)。だから過去の大戦を経て、現世から食糧をはじめ様々なものを調達できるツテを得たのは不幸中の幸いといってもいいかもしれない。
「はい!凪さんの好きな紅茶の茶葉と果物!あといつものお野菜やお魚も入れておいたよ」
浦原商店のちゃぶ台に、どん!という効果音とともに置かれた大きな紙袋たち。ありったけの食糧や嗜好品を詰めてくれた紙袋の存在感は鎮座という言葉がよく似合う。そのひとつからは剥き出しのフランスパンが数本はみ出ていた。
いつもの如く凪が所望するものを調達してくれた彼女の姿をすっかり覆い隠すくらいの大きさにまで膨れ上がったその袋たちと、袋に添えられた白い手を交互に見て凪は苦笑する。凪さんが見えないな!と、袋の横からひょっこり顔を出した織姫の明るい笑顔にさらに苦笑をこぼして、いつも助かるわ、と凪は差し出されるままにそれを受け取った。
「本を正せば死神も虚も人間だからなのかしら、意外と現世の食べ物が好きな破面も多いのよね」
私も含めてね、と織姫に言えば、食べ物はなんでも美味しいもんね!と少しずれた返答が飛んでくる。まあそれもいつものことなので、凪は紙袋をちゃぶ台から自分の隣に降ろしながら調達してもらった食材で何を作ろうかと思案した。
破面であるグリムジョーの主食は魂魄だが、凪の作るものも一緒に食べる機会が増えた気がする。食事の席につけば当たり前のようにそこにいるので、彼の分も作って出すのが日課になってしまった。
「凪さん今日時間ある?一勇、一護くんが見てくれてるからお茶しに行かない?」
美味しいケーキ屋さん見つけたの!とにこやかに誘ってくれる織姫も、数年前に黒崎一護と結婚し子を産んだ。一児の母となった今でも彼女の天真爛漫さは変わらない。
せっかくの申し出と、久しぶりに義骸に入って現世をぶらつくのもありかと思ったが、今日ここに来る前にグリムジョーと交わした会話が脳裏によぎって、ああ今日はだめだとすぐに思い直す。
「ごめん。喜んで、て言いたいんだけど、今日は向こう側から黒腔開けてもらわなきゃだから、多分もうじきグリムジョーが迎えにくると思うの」
虚圏から現世に行く際は、いつもグリムジョーに黒腔を開けてもらっている。帰りは浦原に現世側から開けてもらうことが多いのだが今日は一日浦原が不在と聞いていたので、グリムジョーに適当な頃合いに向こう側から開けて迎えに来て欲しいと頼んでいたのだ。
なんだ〜残念!次は行こうね!と凪の手を取り約束ね!と明るく言う織姫に、ごめんねと再び謝りながら、ぶんぶんと繋いだまま振られ続けている彼女の手に視線を落とした。
織姫の白くて細い指に光る指輪。
左の薬指に指輪をしている者はパートナーがいると暗黙の了解でわかるくらいには尸魂界にもその文化は根付いていた。虚圏は婚姻制度がないし、そもそも夫婦という概念もないので指輪をする風習はないし今後その文化ができることもないだろう。
凪の視線に気付いたのか、そういえば、と織姫が何か思い出すように視線をあげた。
「滅却師たちとの戦いの時、虚圏でグリムジョーに凪さんとどういう関係か聞いちゃったことがあって」
初耳だった。そうなの?いつ?と問えば、凪さんが大怪我したときだね、とのこと。
ああ、虚圏狩猟部隊の滅却師にやられたときか、と凪は頷いた。あの時ばかりは本当に死んだと思ったが、たまたま浦原たちと虚圏にきていた織姫の能力でなんとか一命を取り留めることができたのだった。藍染にやられた時もだが、死にかけた時にいつも助けてくれたのは人間である織姫だった。その能力は未だ健在で、グリムジョー共々その借りはまだ返せてないと思っている(そもそも今もこうやって食糧を調達してもらっているのだから、借りは増える一方だ)。
「グリムジョーが
目が覚めるまでの記憶がないので、グリムジョーがどういうテンションで彼女にそう告げたのかわからないし、我々のどんな様子を見て織姫が納得したのか想像できないが、あの頃からグリムジョーは
「おかげさまで、それなりに仲良くやってるわよ。本来の
何かを贈りあったりすることは皆無。ただ一緒に生きる約束をしただけ。一緒に目を覚まし、食事をして、行動を共にし、一日の終わりには抱き合って眠る。それを
ふと、見知った気配が突如空間に現れるのを感じた。地下の勉強部屋からだ。黒腔が開かれた気配もする。思ったより早く迎えにきたらしい。
「織姫、今日はありがとう。グリムジョー、もう来たみたい」
凪が告げれば一拍遅れてグリムジョーの気配に気づいたのか、織姫はほわっと笑って、私もお迎えきたみたい。と言う。
浦原商店の玄関側、そちらに意識を向ければ黒崎一護ともうひとつ、彼らの子どもの霊圧を感じることができた(幼い子どもなのに相当強い霊圧を持っている。サラブレッドというやつだろうか)。
「グリムジョーと顔合わせると面倒なことになると思うし、私もう行くね」
未だに黒崎一護との再戦を望み、彼に執着してるグリムジョーがここで彼と顔を合わせると面倒なことになるのは目に見えている。
凪は紙袋を抱えて立ち上がり、またねと織姫に指先だけ振って別れの挨拶をした。
またね〜!と大きく手を振って見送ってくれる織姫に笑いかけて、地下へ向かう階段を降りる。
広い空間の真ん中に開かれた黒腔のそばには、いつものように眉間に皺を寄せたグリムジョーが腕を組んで立っていた。
「お迎えありがとう」
礼を言いながら彼の方に近づけば、おう、と短くグリムジョーは答え、凪の手から紙袋をいくつか取り上げた。手元が軽くなり少し余裕が出たので彼の顔を眺めれば、グリムジョーは頭上を見上げながら「黒崎いるじゃねえか」と目を爛々を輝かせ始めた。こういうところは本当わかりやすいし好戦的な本能は相変わらず健在だ。
「今日はだめ。向こうは子連れよ」
戦うなら万全の状態で挑みなさいよ、と肘で彼の脇腹を小突けば、チッと舌打ちをして運の良い奴めと恨み節を吐いた。
凪が黒腔に近づけば、グリムジョーは踵を返して先にその空間に足を突っ込んだ。
「とっとと帰んぞ」
グリムジョーが自らの霊子で足場を作ってくれる。たった一歩でずっと先まで足場が出来上がった。また力が増してるなとそんなところから彼の破面としての強さが高まっていることを察する。私も負けていられない。
「ねえ、帰ったら食事の時間まで鍛錬に付き合ってよ」
「ああ?珍しいな、てめえから誘ってくんの」
「たまにはいいでしょ」
久しぶりにネガル遺跡の方に行く?と先に黒腔を進み始めたグリムジョーに声をかければ、悪くねえなと彼が少し笑った気配がした。
荷物を置いたらすぐ行こっか、と、他愛のない会話を繰り返す。背後で黒腔が閉じる音がした。
(20220616)