空洞に響く

ひやりとした嫌な風が首元を撫でて、思わず後ろを振り返りながら首に手を当てる。眉を顰め、目を凝らして周囲を伺うが何も視界に入ってこない。いや、視界に入ってこないのではない、見えないのだ。ただひとつの光すらない、真っ暗で冷たい空間の真ん中にぽつりと自分ひとりが立っている。自然と息を殺して周囲を伺うが何の気配も感じられない。唯一、ぴちゃんぴちゃんと、何かが滴る音が一定のリズムで不気味なほど響いているだけだった。

ああ、これは夢だ。
そう脳が冷静に、これは現実ではないと告げてくる。

自分の記憶が正しければ、いつものように凪と虚圏を飛び回りながら鍛錬をして、心地よい疲労感を覚えた頃に自分達の宮に戻り、食事をして、睡魔を覚えた凪がベッドに向かえば自分も彼女の後を追ってその隣で横になった。
眠る時、気づけばいつも彼女を抱いている。ただ、今この瞬間、両の腕にすっぽりおさまるその身体の柔らかさとあたたかさは感じることができない。
ひたすら居心地が悪い。とにかく不快な空間だった。

「…チッ。とっとと目ぇ醒ましやがれ」

思わず自分自身に苛ついて独りごちてみれば、意外と狭い空間なのか自分の声が何かにぶつかって反響する。ぐおんぐおんと超音波のようなそれはとても気味が悪く、夢でここまで不快感を覚えることがあるものなのかと思わず眉を顰め息を吐いた。
その時だった。

「やあ、グリムジョー」

耳に息がかかるくらいの至近距離で聞き覚えのある声に名を呼ばれた。反射的に飛び上がってそれと距離を取る。夢とはいえ迂闊に背後を取られるとは。チッと舌打ちをして思わず腰の斬魄刀に手を伸ばすが、そこにいつもある得物はなかった。ああそうだこれは夢なんだ。夢だから、と冷静を装って何度も脳内で叫ぶ自分と、この薄気味悪さと頸を伝う冷や汗があまりにもリアルで、本当に夢なのかと脳を混乱させる。

「そんなに警戒しないでくれ」

浮かび上がるように暗闇から姿を見せたその男に、グリムジョーは瞠目した。
奇抜な髪色と人を小馬鹿にしたその目つきは、忘れたくとも忘れられない腹立たしさを思い出させる。

「てめえ、ザエルアポロ…?!」
「覚えていてくれて光栄だよ。君の面積の狭い脳は僕のことをすっかり忘れていると思っていたからね」

自己紹介からはじめるつもりだったのに、と後ろ手を組んだままくつくつと笑うかつての同胞の姿に、さらに不快感がこみ上げる。もともといけ好かない奴ではあったが、夢にまで出てきて昔と変わらない声音と口調で煽ってくるとは。…とっくに死んでいるくせに。

「てめえとっくに死んでんだろうが。とっとと消えやがれ」
「おや、僕は親切にも君に忠告しにきたんだよ。話を聞く前から拒絶するのはおすすめしない」
「ああ?」

まるで生きている時のように、そもそも夢にしてはリアルすぎるザエルアポロの姿と口調と霊圧を肌で感じ、グリムジョーは眉間により深く皺を寄せた。ふん、と鼻を鳴らし、夢ならとっとと醒めやがれともう一度独りごちる。するとザエルアポロは、にやりと口角を吊り上げ、両腕を広げて高らかに言い放った。

「ああ夢か!そうだ、これは夢だ!夢だが、現実だ!!」

パリン、と周辺の空間が割れる音がして、思わずそちらに目を向けた瞬間、ぐっとザエルアポロがグリムジョーの眼前まで距離を詰めてきた。音もなく眼前に迫った狂気を浮かべた彼の表情に、グリムジョーは思わず不意を喰らって息を呑む。
その様子を面白そうに眺めていたザエルアポロは、グリムジョーを下から睨め付けながら片方の口角をあげて煽るように笑い、ゆっくり噛み締めるように吐き捨てた。

「死神のあの女」

誰のことを指しているのか、それはすぐに察しがついた。

「死神のくせに、破面と生きる咎人」

くつくつと喉の奥から殺し切れていない笑いをこぼすザエルアポロに、グリムジョーは半眼据えて無言のまま爪をその身を突き立てた。
ぐしゃりという肉が潰れる音と共にザエルアポロの腹の真ん中に大穴があき、やああってザエルアポロの姿が消える。しかし次の瞬間、「話の途中だ」と背後から吐息混じりの、今しがた消えたはずの男の声にじっとり舐め上げられぞくりと悪寒が走った。
反射的に振り向きざまに自らの爪でその身体を切り裂こうとしたが、今度はザエルアポロが器用にその攻撃を避けながら言葉を続ける。

「グリムジョー。君もまた、死神の女と生きることを決めた咎人だ」
「死んだてめえにとやかく言われる筋合いはねえ!」

不愉快だ、消えろ!そう吐き捨てたグリムジョーの様子を嬉しそうに眺めながら、ザエルアポロは舌を突き上げ一気に捲し立てた。

「君たち咎人を神は許さないだろう。ああ、この世に神なんて存在しないか。その代わりに、地獄の獄吏が咎人を捕らえにいくやもしれない。地獄の獄吏は、決して罪人を逃さない。世界の理を犯した君たちをね」

耳障りな笑い声が空間に響き渡り、さらに空間にヒビが入る。音圧なのかなんなのか。不快感に眉を顰めたままのグリムジョーに目をやって、ザエルアポロは、ここからが君への忠告だ・とくつくつと笑った。

「その時が来るまで、せいぜい逃げ惑え」

瞬間、ザエルアポロの姿が立ち消える。同時に空間がぐにゃりと歪んだかと思えば、パリンと音を立てて一気に空間が捻れ剥がれ落ちはじめた。ガラスの破片に似たそれらが辺り一体に降りしきる。思わず腕で顔を庇い薄目で崩壊しはじめたその先を見れば、何かが居るのがわかった。目を凝らし、意識をそこに集中する。

霊圧は感じない。
ただ、そこに座り込んだその後ろ姿は、よく見知った女の背中。
いつ以来か、黒の死覇装を纏った彼女。

「おい、凪!」

夢だとわかっているのに思わず声を上げ、降り続ける破片の中を突っ切って彼女のそばに駆け寄った。振り向かせようと彼女の肩を掴んだ時、足元がずるりと滑った。足をとられた弾みに下を向けば、赤い液状のものが凪を中心に広がっていることに気づいた。一拍遅れて、夢なのに、鉄の匂いが鼻腔に届く。

「凪、」

舌打ち混じりに、どこ怪我しやがった・と言葉を繋ごうとしたときだった。
肩に置いた手に、凪の手が重ねられる。その手も真っ赤に濡れていて、恐ろしいほど冷たい彼女の手に全身に寒気が走った。

「ごめんね、グリムジョー。私たち、死んじゃった」

ゆっくり身を捩った凪の腹は、先程自分がザエルアポロにあけたのと全く同じ場所が穿たれていて。そこから彼女の潰れた内臓が溢れ、ぴちゃんぴちゃんと内臓から滴る血が血溜まりに落ち続けていた。ずっと空間に響いていた水が滴る音、それがこの凪の血の音だったと悟り、すっと血の気が引いた。

顔を伏せたままの凪の身体が、ずずっと崩れ始める。思わず伸ばした手は空を切り、彼女に触れることさえできやしない。目の前で崩れる彼女を目の当たりにして途方のない絶望が身体を満たす中、ようやくこちらを見上げた凪の顔は真っ黒に塗りつぶされていて。その表情からは何も読み取ることができず。立て続けに起こる地獄のような展開に、もう声のひとつも上げることができなくなっていた。





ひゅ、と喉の奥が絞められ、どくんと心臓が跳ね上がる。同時に背中も弓なりに跳ねてグリムジョーは目を見開いた。薄いシーツを剥ぎ取りながら勢いよく身体を起こし、周囲を見渡せばそこは見慣れた自分達の寝室だった。

ただ寝ていただけのはずなのに呼吸は大きく乱れ、肩で息をしてはぜえぜえと喉の奥から濁った音がこぼれでる。

ああ、夢だ。そうだ、夢だとわかっていたのに。

掌を見つめればそこに血の跡は一切ない。安堵と同時に後味の悪さが一気に身体を駆け巡り、爪が食い込むくらい掌を強く握り締めた。

「くそっ…!」

じっとりと額には嫌な汗が滲んでいた。夢見が悪すぎる。最悪だ。荒れた呼吸を整えながら落ちてきた前髪をぐしゃりと掻き撫でる。

「…凪?」

ふと、隣にいるはずの凪の姿がないことに気づいた。またドクンと心臓が大きく跳ねる。
反射的にシーツに手を置くがそこはすっかり冷えていて。先程までベッドにいたのなら多少なりとも彼女の体温がシーツに移っているはずだ。凪の霊圧も微かにしか感じない。

あの夢の後に、これは性質タチが悪すぎる。

舌打ちと共に立ち上がり、「凪!」と叫んだ。返事はない。もう一度その名を叫んで、彼女の霊圧を探りながら部屋を出ようとした、その時だった。

「…なに、どうしたの。そんな大声出して」

扉に手をかけた瞬間、求めていた霊圧がふわっと肌を撫でた。半開きだった扉が向こう側から開く。そこには目を丸くした凪がグリムジョーを見上げながら立っていた。
グリムジョーは目の前の凪をまじまじと見つめて、頭のてっぺんから順番にその姿を確認する。彼女が眠るときに纏う、細い肩紐の、胸元が大きく開いた薄手の寝間着を何と呼んでいたか。彼女の身体に沿ったシルエットのそれは、バランスの取れた華奢な凪の身体のラインを強調してみせてくれる。デコルテ部分には昨夜自分がつけたばかりの赤い花の痕が残っていて。それは白い肌に特別映えて、まるで浮かんでように見えた。

いつも通りの凪だ。

頭がそれを理解し、思わず深く長く息を吐けば、その視線をまっすぐ受けていた凪が汗だくのグリムジョーに気づいたのか、なになにどうしたの!汗だくじゃない!とグリムジョーの両腕を掴んだ。

「…てめえ、今までどこ行ってた」
「レストルームよ。あんた、珍しく私がベッドから抜け出しても気づかず寝てるなって思ってたけど…」

酷い顔してるわよ、と凪はグリムジョーの仮面で覆われていない左頬に手を伸ばす。彼女の指先はしっかり血が通っていてほんのりとあたたかい。それが身体の強張りをほんの少し解いてくれた気がして、グリムジョーは凪に気づかれないよう小さく息を吐き出した。

「…胸糞悪い夢見た」
「あんたでも悪い夢見るのね」

言いながら足が冷たい、と凪は身震いしてグリムジョーの手を引いてベッドに向かう。とぼとぼとされるがまま凪に連れられていく最中、珍しく凪が裸足であることに気づいた。

ベッドに腰掛けた凪の隣に座らされ、近くに布がないからこれで我慢して、と彼女がシーツで額の汗を拭いてきた。雑な女だな、と思う反面、いつも通りの彼女がそこにいることに安心する。

「悪い夢見ると寝覚め悪いし、やな気分になるわよね」

はい、終わり。とシーツから手を離した凪はクッションを示しながら、寝直そう・とグリムジョーをベッドに誘う。
凪自身はさっさとベッドに潜り込んで、まだ腰掛けたまま動かないグリムジョーをじっと見上げていた。自分を見つめたまま動こうとしないグリムジョーに、凪は首を傾げて、どうしたの?と訊ねる。グリムジョーは一瞬躊躇いを見せたが、ばつが悪そうな表情を浮かべて言った。

「てめえも悪い夢見るのかよ」
「そうね…前よりは減ったかな」
「減った、てことはまだ見ることあんだな」

あんなん見せられたら身がもたねえ、とグリムジョーは独りごちたかと思うと、ゆっくり凪の隣に身体を横たえた。
彼がこんな風な様を見せたことなどかつてない。よっぽど堪える夢だったのか・と凪は隣の男に擦り寄って、いつも以上に冷たい彼の身体を撫でた。悪夢に魘されて宥められるのはいつも自分の方だったのに。今日は逆だ。

「寝たくないなら私も寝ないで付き合うよ」

続き見たくないから寝たくなくなるよね、と言えば、そうだな、と彼にしては珍しく普通の相槌を返してきた。ああ、これは相当堪えている。一体どんな悪い夢を見たのか。

「答えなくていいけど、そんなに酷い夢だったのね」

あえてその胸に頭を預けながら聞いてみれば、彼は無言のまま凪の頭を掌で何度も撫でた。いつもより幾分も丁寧で優しいその手つきに、凪は思わず目を閉じる。彼の指が髪を梳く。その度に彼の指にはめられた、自分と揃いの指輪が頭皮を掠めた。そのひんやりとした冷たさもなぜか心地よく感じてしまって、ああ、そんな風にされると眠くなってしまう。寝ないで付き合うと言ったばかりなのに。
そんな凪の様子を察したのかいないのか、グリムジョーは横目で彼女を見ながら、寝ろ・とぶっきらぼうに呟いた。

少し前は睡魔のかけらも飛んでいってしまっていたのに、今はまた心地よい眠りに誘われている。完全に眠りに落ちる前に、しんどくなったら起こしていいからね、と普段は絶対に言わないような優しい言葉を彼に投げて、凪は目を瞑った。その間際視界に入ってきたのは、じっと自分を見つめる、不思議と感傷的な色をのせたグリムジョーの綺麗な瞳だった。





普段のグリムジョーであれば、凪がベッドから抜け出せばすぐに気づく。
デレカシーのかけらもなく、そっと部屋を出ようとする凪に寝ぼけ眼でどこに行くのか問いかけてしまうのがグリムジョーという男だ。

しかしこの日は彼を襲った悪夢のせいで、グリムジョーの判断力は大いに鈍ってしまっていて。

凪がシーツが冷たくなるほど長い時間ベッドから抜け出していたことも、眠りが浅いはずの凪がすぐに眠りについたことも、彼の中でかけらも引っかかる要素となりえなかった。
それだけあの悪夢がいつもの彼を狂わせていた。

それは偶然なのか必然なのか。

これは単に何かが崩れ始める予兆のひとつに過ぎないのだが、グリムジョーにとって今この時間はこの先どうしても忘れられないものとなった。


(20220617)