その鋭利をゆるして

見ず知らずの幼い私を、大怪我をした状態で、血を吐きながらも必死に庇ってくれた死神を、

私は後ろから刺したことがある。







柄にもなく生唾を飲み込み、意を決してそこに足を踏み入れた。十年以上ぶりに立ち入ったこの隊舎に、懐かしい思い出などかけらも存在していない。
かつて五番隊所属だったこともあるがそれは形だけで、実際は藍染に“飼われていた”だけだった。他の隊士にも認知されていない、ただ黒の死覇装を纏っただけの“死神もどき”の私を私として認識していたのは本当に片手で数えられるくらいの人数しかいなかった。
その中で、本当に一瞬だったけれど、私の名前も知らないけれど、私を私と認識した上で庇ってくれた死神がいた。
本当にそれは、本当に本当に一瞬の出来事だったけれど。

あの長くて綺麗な金色の髪と飴色の瞳を、私は忘れたことはない。





「えらい久しぶりやなァ」

この隊首室を訪れるのは藍染が隊長だった時以来。だからかつて藍染がいたそこに座する男を見るのははじめてだった。…そもそも、ちゃんとこの人と面と向かって顔を合わせるのはこれがはじめてかもしれない。

頬杖をついたまま片方の口角を上げ、半眼据えたその男はじっと自分を見ている。待っとったで、と死神としては珍しい方言混じりの口調。窓から吹き込んだ風が彼の真っ直ぐ切り揃えられた金髪を揺らした。
虚圏で暮らしていても、緊張感だったり、何かに臆するなんてことはもうほとんどないが、この人の前では想像していたよりもうるさいくらい鼓動が跳ねて暴れている。それは彼に対峙しているから、という理由だけではないだろうが。

息を呑んで、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「…お久しぶりです、平子隊長」

凪の声を待って、平子真子は表情を崩さないままとぼけた口調で言葉を返した。

「百年以上ぶりか。あんなに米粒みたいにちっこかったのが、えらい別嬪さんになったなァ」

投げられた言葉と口調自体は軽いが、向けられた視線と彼が纏う空気はじっとりとしていて、とても重い。
無理もない。
彼にとって私は自分の寝首をかいた憎い存在だろうし、藍染一派に与していた死神で、敵と認識されても何らおかしくない立ち位置にいた。滅却師たちとの戦いでもあえて彼とだけ顔を合わせないようにしていたのは、どこか私に後ろめたさがあったからだ。

平子は背もたれに体重を預けながら長い腕を頭の後ろで組む。視線は凪から離さないまま口を開いた。

「喜助に聞いたで。何や俺に聞きたいことがあるって」

すべて知った上で彼は私に言わせようとしていると瞬時に悟る。もう彼は笑っていない。彼の纏う空気が変わると同時に作り物の笑みもすっと消した。
そして今から私が聞こうとしていること。それを彼に聞くことは酷すぎるし、聞いたところで私に残る選択肢が増えることはない。それははじめからわかっていた。
しかし、それでも。どうしても直接会って聞きたかったのだ、その口で。当事者である彼に、その実態を。

「…死神と虚が混じった身体って、どんな、…感覚?」

まだ膨らんでいない腹の前で組んでいた指を解いて、代わりに彼と真逆の色をした白の死覇装をぎゅっと握り込む。うなじにじわりと冷や汗めいたものが滲むのを感じた。
恐る恐る、しかし一気に胸の内の疑問を投げかけた凪の言葉に、平子の形の良い眉がぴくりと動く。

虚化。

平子真子は、藍染による虚化の人体実験に巻き込まれた被害者であり、今もその身に虚を宿した死神だ。藍染追放後、護廷十三隊の隊長に復帰した今も彼の虚化は完全に解けていない。
“魂魄自殺”は浦原のワクチンのおかげで防がれているが、その身の内から虚が消える日はおそらく来ることはないのだろう。その彼にこんな質問を投げかける日がくるなんて思っていなかったし、その答えによって私と腹の子が救われるとは思えなかった。それでも、少しでも情報を、可能性を探るには彼に会って直接聞く選択肢しか思い浮かばなかったのだ。


彼が虚化したその夜、私はその場にいた。


凪を流魂街の住人と思い込んだ平子は、虚化したひよ里から致命傷を負わされていたにも関わらず、血を吐きながら凪を抱えて避難させようとした。彼の腕に抱き抱えられ、現れた藍染から距離をとって庇ってくれたその背に斬魄刀を突き刺したのは、幼い私だ。
振り返り様に散った金色の髪と驚いたように見開かれた飴色の瞳は、私の脳裏に今も焼き付いている。あの日胸を突くように襲った罪悪感を、私は忘れることはできないだろう。

じっとその飴色の瞳で射抜かれる感覚に耐えかねて、凪は思わず目を逸らした。
ああ、私はなんて勝手なことをしているのだろう。自分の身に起こっていることが未だに信じられず、判断力が随分鈍ってしまっていることは自覚している。以前の私なら絶対に自分から尸魂界に来ることはなかったし、自分の罪悪感を掘り返すような行為はしなかった。それは弱さ故なのか、トラウマから身を守るための自己防衛なのかはわからないけど。

「…ええ気分はせえへんな」

張り詰めた空気を破ったのは、不意に紡がれた平子の声だった。それが自分が投げた不躾な問いの答えだと気づいて、凪は思わず顔を上げる。頬杖を突き直して、じっと凪を見ていた平子が、凪の様子を窺いながらまた口を開いた。

「自分と同じ格好した奴があることないこと頭ん中で喋り続けるんや。想像しただけで気ぃ滅入るやろ」

自分ん中の虚を完全に屈服させんとこっちが乗っ取られるからなァ。ある程度同調も必要やし、まあ面倒の一言やな。

また頭の後ろで手を組んで、ぎぃ・と椅子を鳴らしながら背もたれに自分の背を預けながら平子は一気に言った。すらすらと感想を述べるように伝えられたその事実は、口調に反してとても重い。面倒なんて簡単な単語で片付けられるものではないだろう。
そんな凪の頭の中の声を察したのか、平子は、まあ…と前のめりになりながら、凪の腹に視線を投げた。

「俺たちは後天性やけど、腹の子その子は正真正銘天然モンやからな。また話が変わってくるやろ」

浦原から話は一通り聞いているらしい。
平子の言葉に凪はぎゅっと目を瞑って、手の中の死覇装をさらに強く握り込んだ。言いようのない感情が身の内に渦巻いて放出できない。いろんな感情が混じり合って、どくんどくんと鼓動の音に合わせて血液が身体中を巡る音まで耳の奥に響いてくる。

グリムショーと自分の間に宿った子が一体何者なのか、それは今は誰にもわからない。虚化した死神に近いのか、破面に近いのか、はたまた別次元の何かばけものなのか。
わからないことがこんなにも脅威だなんて知らなかった。冷や汗はこめかみにまで届いて、つう、と輪郭を撫でるように落ちていく。

俺個人としては、と、先程よりも張りのある声がそこに響いて、凪は閉じていた瞳を反射的に開いた。

「生まれてくる子どもに罪はないんやし、なんもなくすくすく育てやぁくらいにしか思わんけど」

彼があえて軽い口調で言葉を紡いでいるのは気配でわかる。それは凪の緊張を解こうとしているのか。いや違う、彼はそこまで優しくない。これは彼の本心だ。彼個人の思いが今の言葉。そして、今度は声を低くして、ただし、と彼はまた口を開く。

「死神の俺は、その腹の子脅威が世界に危害を加える可能性があるんなら、はいそうですかーてほっとくわけにはいかんからなァ…」

据わった目に射抜かれて、思わず凪は一歩後退った。それは彼の死神としての矜持。個人の思いなど、死覇装を纏った死神の前では掻き消される。ぴりっと平子の身体から強い霊圧が放たれた。隊長格のそれと虚のそれが混じった異質な霊圧。ぶわっと全身から冷や汗が噴き出した。


彼の運命を変えてしまった私への罰が、腹の子ごと今くだされるのかもしれない。


一瞬のうちに、覚悟が決まる。目を閉じてその衝撃に身構えた時、背後の扉越しに知りすぎた霊圧が爆発するのを感じた。はっと反射的に目が開き、そちらを振り返る。

「待って、」

振り返りながら制止の声を上げた時だった。

それに被せるように「ま、今は何もわからんからな」と背中にとぼけたような平子の声がふってきた。
思わず、え?と声が出て首をそちらに向ければ、呆れたような表情を見せた平子が「そこにいる破面連れてさっさと帰り」と手の甲で追い払うような仕草をしてきた。
突然の話の転換に脳がうまく状況を処理してくれない。それを察してか、平子はさらに呆れたように言葉を紡ぐ。

「言うたやろ。危害を加える可能性があるなら、て。何もわからんままどうこうしようとするほど俺も鬼ちゃうわ」

本当に危険なら俺がやる前に喜助が何かしてるやろ、と彼は小さく呟く。いつの間にか平子が纏っていた痛いくらいの霊圧は抑えられていて、本能で身構えていた身体が弛緩していくのを感じた。そして思い出したかのように、平子は、あ、あと、と宙に視線をやる。

「昔のことなら気にせんでええよ。あの時はああするしかなかったんやろし」

彼の言う“昔のこと”が、あの夜彼を刺したことを示していることは明白で。思わず目を見開いた凪に、平子は、全部喜助から聞いとる・と呟く。

「わかったらさっさと帰りぃ。何も知らん隊士がびびって駆けつけてまうわ」

ちらりと平子が向けた視線は凪の背後。扉の向こうで未だに霊圧を爆発させたままのグリムジョーの気配がそこにある。彼が扉を破壊して平子を斬りつけなかったのは、ある意味凪が人質のような状態になっていたからだろう。そういう状況に仕向けたのは凪自身なのだけれども(彼はここまで着いてくると言い張ってきかなかったから)。

「なんもないとええなぁ」

ひとつ頭を下げて踵を返し、扉に手をかけた凪にかけられた平子の優しい声。それを受けて凪は思わず振り返りかけたが、ぐっと堪えて動きを止める。
ずっと自分を苛んでいた罪悪感が解かれたことと、自分が心の奥底から願っていることを彼も祈ってくれているように感じた。それが二重に心に沁みて、緩んだ涙腺を必死に堪えて部屋から出た。

部屋から出た瞬間、視界に飛び込んできたのは眉間に皺を寄せ険しい顔をしているグリムジョー。彼がなけなしの理性でその場から動かず耐えていたことがその表情と霊圧から痛いほど伝わってくる。
グリムジョーの顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて、合わせて堪えていた涙腺も決壊した。ぐちゃぐちゃになった感情が涙と共に溢れて頬を伝う。
手の甲で目を拭うが溢れ出る涙は止まらない。グリムジョーの視線をいやでも感じて、見ないで、と小さく呟いて彼の胸に顔を押し付けた。

この感情を言葉にするのは難しい。
悲しいような嬉しいような、開放感とさらに増したような罪悪感と。安心感と切れた緊張と。とにかく色んな感情が入り混じって脳と心がパンクした。

「…とっとと帰んぞ」

頭を胸に押しつけられたまま、抱えられた身体がふわりと宙に浮く。

『なんもないとええなぁ』

平子の祈りにも似たその声は、彼を刺したあの夜の光景に上書きされたように、何度も何度も凪の中で繰り返し再生された。


(20220623)