夢のように思えても

世界の均衡が崩れる。
そのような事態が引き起こされるなんて考えたくなかったし、ましてやこんな短期間のうちに何度も世界の危機に直面するなど予想もしたくなかった。
ただ、万が一、百にひとつでも今度大きな戦いが起こったときははじめからあいつの隣で戦えるよう、日々鍛錬をして力を取り戻していた。守られるだけの存在なんて自分自身が許せない。そう心から思っていたから、戦いなど起こらないでほしいと願いながらもいつかくるかもしれない戦いのために備えていた。

それなのに、まさかこんなに早く。
そしてその時自分の身に、もっと予想だにしていなかったことが起こっているなんて。

グリムジョーとふたり、虚圏で穏やかな日常を過ごしていた時はそんなこと、少しの可能性すら過らなかったのに。

なんで、という自分の問いかけに答えてくれる声は、どこにもない。




現世、空座町。浦原商店の一室。
結界が張られているというそこには織姫と一勇もいた。おうちに帰らないの?という一勇の素直な疑問に、織姫は少し困ったように笑いながら、お父さんが迎えにくるまで待っていようね・と答えている。

その様子を膝を抱えぼんやりと眺めながら、凪はふと窮屈さを覚えて足を崩した。白の死覇装の裾がはだけ、そっとそれを掌で抑える。次いで自然と腹に手が伸び、はっとその手をそこから離した。
腹を圧迫するような姿勢は良くなかっただろうか。無意識に庇ってしまうその様は、まるで自分がすでに親になったかのようで。…滑稽そのものだ。子を宿した時点で親になっているとみなすのであればそれは間違いではないのかもしれないが、この身に宿った命が一体何なのか、それは未だ分からず仕舞いだ。何がいるのかわからないのに、親だなんて(おこがましい)。

ふたりに悟られないよう小さく濁った息を吐き出して、天井に目を向ける。何の変哲もない、見慣れない天井の模様。視界から入る情報を極力なくした状態で思考を再開させる。それはずっと考えていること。

自分自身と腹の子に対し、どう対処するのが正解なのか。

子がいると分かってからありとあらゆる可能性を探ってきた。ただその中で分かったのは、わからないことはわからない、未知なものは未知。そんな当たり前な哲学染みたことだけだった。
途方もなく大きくて絶望的な問題を突きつけられ、答えが出ないまま時間だけが過ぎていた中、突然世界の均衡が崩れて今に至る。


グリムジョーは戦いに行った。
何と戦うのか、何を思って戦っているのか分からないけれど。
私をここに置いて出て行った。

『てめえが生きてりゃそれでいい』

扉越しに投げられたその言葉は、私の頭から消えることはないだろう。今もそれは鮮明に耳に残っている。


ねえ、私はどうしたらいい?


何度そう問いかけても、グリムジョーは「てめえが死なねえならなんでもいい」としか答えなかった。それは彼にとって腹の子(グリムジョーの子でもあるというのに)のことなど二の次であることを示していて、彼の優先順位は共に過ごすうちにいつの間にか私が最上位に到達してしまっていたことを悟った。自分を王と呼ぶ彼が自分以外を優先するなんて、本当にグリムジョーらしくない。そうさせてしまったのは私の存在なのだろうが。
けれど、子が宿ったとわかってから、彼はずっと優しかった。事態が飲み込めずとにかく混乱し、また子を宿したせいか体調が優れず、情緒が不安定になった私をただ黙って宥めてくれた。そばにいてくれた。あらゆる可能性を探ろうと現世だけでなく尸魂界まで行った私から離れようとしなかった。
彼もまた時折何かを探っているようだったが、最後まで何をしているのかわからなかったし教えてくれなかったけれど。でもきっとあれは、私が死なない“絶対の方法”を見つけようとしていたのだ。
だから彼は私をここに置いて行った。
世界の均衡が崩れ、どこから何に襲われるかわからない状況の中で、ここは考えられる最も安全な場所。
まともに戦えない私が助かる可能性が最も高い選択肢に賭けたのだろう。


でもね、グリムジョー。
私に生きててほしいってあんたはいうけど。
私が一番聞きたかったことをね、あんたはまだ答えてくれていないの。


この子をどうしたいか。
あんたから、まだ一言も聞けてないの。


目は閉じていないはずなのにぼんやりと視界が暗くなっていた。ああ、また私は世界を閉ざすと共に思考を放棄する。そうして無意味に時間だけが過ぎていく。その繰り返し。

腹の子は本当にここにいるのか。命が宿ってどれくらい経っているのか。何もわからない。それならもういっそすべてわからないままでいた方が、逆に直面した事態に対し最善の方法を取ることができるかもしれない。

…いや、そのときがくる前に先に自分で始末をつければ、すべて元通り。
グリムジョーと一緒に過ごす当たり前な日々が戻ってきて、そして今からでも一緒に戦える。

ああ、しんどい。
考えるのがつらい、もう疲れた。
いっそ、すべてを無かったことにしてしまえば。

ずっと考えないようにしていた無慈悲な感情と結論が頭をよぎった時だった。

「凪ちゃん」

子供特有の高い声に呼ばれたかと思うと、いつの間にかすぐそばに座っていた一勇の小さな手が凪の腹に当てられた。え?と凪が思わず声を漏らして目を落とせば、織姫にそっくりなくるりとした瞳がこちらを見上げていて。ばちっと音がするくらい、一勇と視線が合わさった。

「凪ちゃん、赤ちゃん男の子だよ」

元気だよーて言ってるよ。

そう言ってまだ微かにしか膨らんでいない腹を撫でる一勇は、黒崎一勇だよ、よろしくね・と腹に向かって軽やかに声をかけている。

私はそれをただ、呆然と見つめることしかできなかった。

そもそも一勇は私が子を宿していることを知っているのか?織姫が伝えた?いや、そんな不用意に彼女はこのことを子どもに話したりしないだろう。
じゃあなんでわかったの?
子どもの言うことだから、適当に、思い込みで言っていると思うのが無難。でもこの子は生まれながらに不思議な力を持っている。死神と人間と滅却師と完現術と…虚の力を宿している子。
そんなこの子がこんなに普通なら、腹の子も普通の子どもとしてこの世に生まれてくる可能性だってある。…ただ、それはあくまで可能性で、実際に生まれてくるまではなにも分からない。
そもそもちゃんと人間や死神のように十月十日で生み月になるのか。ちゃんと産道を通って出てくるのか。力が強すぎて腹を破って出てくる可能性だってゼロではない。
だって、何を宿しているのか、何が生まれてくるか、誰にもわからないのだから。

自分で始末すれば、すべて元通り。
わかっている。わかっているけれど。
それでも。

「そう、なの…」

呟くように一勇の言葉に答えれば、よしよしと撫でられ続ける腹の中で、ぐるんと何かが動く感触がした。はじめて感じるその感触に、思わず身体を身構える。強張る身体に反して本能が冷静に頭の中で“胎動”という単語を導き出した。何分すべてがはじめてのことで、誰かが教えてくれるわけでも教えられて理解できるものでもないから、本当に胎動なのかわからないけれど。でも、これまでに感じたことのない内臓が押される不思議な感覚が胎内からしている。ぐるんぐるんと何かが中で蠢いてる。
それはまるで、自分の存在を主張しているかのようで。

「元気なの…」

一勇が腹を撫で続ける。その度にくるくる腹の中で動く赤子。これまで全然存在を示してこなかったのに、今になって突然に。

男の子だよと一勇は性別まで断言していて、子の存在すら知らないはずの一勇に何故それがわかるのかわからないけど。
ただ、元気だよと言われて。子が元気だとわかって。

泣きたくなるほど、嬉しかった。

あなたが何者かわからないし、私は生み出してはいけないものをこの身に宿したのかもしれない。それでも、本当に今元気で生きているのなら。

「よかった…」

溢れそうになった涙を隠すため、両手で顔を覆えば、それに驚いたのか一勇が手を止めこちらを見上げている気配がする。
ああ、だめだ、止められない。
ぎゅっと目を閉じて様々な波がおさまるのを待っていた時、一勇よりも大きい手が背中に添えられた。そっと、優しくさすってくれている。織姫だ。大丈夫だよ凪さん・と優しい声がする。
大丈夫、きっと大丈夫。言い聞かせるように何度もそう言ってくれる織姫の声音は私の知らない、母親の織姫の声だった。

波はおさまるどころか激しさを増し感情の嵐となって心の内で渦巻き始めた。掌で受け止めきれないほど、涙が勝手に溢れてくる。それと同じように、心の奥底からある感情も浮かび上がってきた。



グリムジョー。

心の中で呼び掛ければ、いつもの不機嫌そうな彼の顔が脳裏を過ぎった。思い出すのはいつだってその顔。
眉間に皺を寄せて、口を固く結んでいる。
何を考えているのかわからないあんたのその顔。でも、グリムジョーが私に絶対に死んでほしくないと思ってくれているのは痛いほどわかっているよ。

でもね。
私、正直どうなるかわからないけど。
できればあんたとずっと一緒に生きていたいけど。
自分が生き残るために、とても残酷なことを考えてしまったけど。

ごめんね。
やっぱり私は、私の中で生きる存在を消してまで、自分ひとりが生き続ける道は選べない。



「…織姫」

震える声が自分から発せられたものだと頭が理解するには少し時間がかかった。
なあに?と優しく織姫が相槌を打ちながら、次の言葉を待ってくれている。理性と感情が入り乱れる。頭の中で言葉が整理できない。
息を吐けば一緒に嗚咽混じりのしゃっくりが飛び出てきた。これ以上考えればきっと言葉すら発せられなくなる。ええいままよ、と口を開いて溢れる言葉に全てを託した。

「あの馬鹿、私に死ぬなって言うの。生きてればそれでいいって。だからなるべく死なないようにがんばるし、けど生まれた子が危険だと思ったら、私が責任持ってなんとかするし、なんなら危険って分かった時点で私ごと消えてもいいから、だから、だから…」


次いで零れ落ちた涙と言葉は、やっと辿り着いた私の本心。


「この子、もう少し私のお腹の中にいさせてあげてもいいかな…?」

掌を離して、目の前にいてくれた織姫を見る。私の顔は涙でぐちゃぐちゃになっているだろう。額には汗で前髪が張り付いてるし、しゃっくりも止まらない。
とても触れられるような状態の私じゃないのに、織姫はぎゅっと抱きしめてくれた。その細腕のどこにそんな力があるのかというほど強く両手を背中に回してくれる。ずずっと鼻を啜る音がする。織姫も泣いている。言葉を出せないくらい彼女も泣いていて、大きく首を上下させながら、良いに決まってる!と震える声をようやく絞り出した。
近くで静かに様子をうかがっていた一勇が、泣かないでと言う。悲しいことは何もないよと必死に言い募ってくれる。そうだね、そんなもの、ひとつもないね。


今は悪夢のようなことが世界を襲っているけれど、いつかまたあの日常が戻ってくる。そう信じてもいいのかな。


腹の中で、子はぐるんぐるんと回り続けている。
親になるということを、なぜかこの瞬間許された気がした。


(20220717)