Never forgive me.

わたしたちはただ、向かい合ったまま無言で立ち尽くしている。ヴィンセントが何も言わない理由はわからない。伝えたいことは溢れるくらいにあるのに、どうやってそれを伝えればいいのか——そして、それは本当に伝えてもよいことなのか、分からなかった。ごくり、と唾を飲み込んだのはどちらだっただろう。船員たちは皆もう休んでいるようで、此処に残っているのは二人だけだった。


ただ立ち尽くすばかりの、この時間がいつまで続くのだろうかと、そう考えた、その瞬間だった。


「…うっ…!」
「っユリア!」


突然胸に貫くような痛みが走る。思わず呻き声を上げてしゃがみ込むと、ヴィンセントが慌てたように名前を呼んでわたしの元へ駆け寄った。神羅ビルにいた時と同じ痛みに視界が霞んだ。


「…部屋に、」
「ああ、掴まれ」


ヴィンセントがわたしの腕を彼の肩に回して、そのままわたしを抱き上げる。
——この体勢を取るのは2度目だな、と揺れる頭でぼんやり考えた。痛みに瞳を閉じると、暫くして柔らかなシーツの上に体を下ろされる。ベッドの上だと分かって、ありがとう、と口を開こうとしたが、呻き声しか出なかった。


「…何か必要なものは」
「…ぁ、吐きそ、」
「待っていろ」


自由になった両手で、口を抑える。
す、と離れた体を認識することさえできず吐き気を堪えていると、目の前に黒い袋が差し出された。急いで両手でそれを受け取ると、顔を突っ込んだ。


隣でヴィンセントが背中を摩るのを感じながら口から溢れ出るままに吐き出す。どれだけの間あの研究室で眠っていたのかはわからないけれど、そう短い間でもないだろうに、胃の中には何が入っていたのだろう。血の混じった吐瀉物が袋の底に溜まって、何か嫌な匂いが鼻を掠めた。


一頻り吐き出してようやく落ち着くと、袋から顔を出して口を結んだ。口の中にまだ吐瀉物が残っていて不快感に顔を顰めると、ヴィンセントは察したように無言で袋を奪い去ってすぐ、水の入ったグラスを持ってくる。それを受け取り、一口飲んでようやく落ち着いた。


「ありがとう」
「…いや、」


ヴィンセントは言葉に迷うように、口を開いたまま瞳を彷徨わせていた。


(……あ、)


手を伸ばせば届く位置で、その美しい顔が戸惑いに揺れている。
絶対に埋められないと思っていた距離はもう、ない。いつの間にか、超えられないと思っていた見えない線を簡単に越えてしまった。それはきっと彼も無意識で、だからそれに気がついた今、また何も言えずに黙り込む。


思えば彼との関係はこうしていつも、自覚するより前に先に進んでいる。
いつの間にか心の中に入り込んで、決して誰も入れたくなかった、今はもういない彼だけを許していたその場所にまで。それに気づいても、離れられなくて。


人を愛するのはそれだけで罪なのかもしれない。竜巻の迷宮で見た愛しい人を思い出す。200年前の罪を、なかったことにはできない。償えるとも思っていない。あの人の姿がジェノバの作り出した幻想であっても、彼が生きていたころ最後に発した言葉は幻ではない。


分かっていたけれど、引き返すにはもうあまりに深く先まできてしまった。
引き返すことを考えることさえなく、いつの間にか超えてしまった境界線の先にふたりで立っている。心に触れ、その痛みを知って、今更それに背を向けることもできずに。


「…ヴィン、セント」


少し震える声で名前を呼ぶと、どこか遠くを見ていた瞳がわたしのそれを覗き込んで焦点を結ぶ。顔を上げる時にさらりと、艶のある黒髪が揺れた。赤い瞳が真っ直ぐにわたしを眼差している。


もう、誤魔化せないと悟った。


「…あの、ヴィンセント」


好きだよ。
初めてそう、言葉にした。


胸を抑えて俯く。ヴィンセントは何も言わない。どんな表情を浮かべているか、確認する気にはなれなかった。
——きっと気づいてなかったわけではないはずだ。それでも、伝えるつもりはなかった。何度も逃げて、誤魔化して、拒絶した。今更都合がいいだなんてことは分かっている。胸が痛い——人を愛するというのはこんなにも、悲しいことだっただろうか。


「ごめんね、」


何も聞かずに、唇を重ねる。
拒絶されることはなかった。緩く啄むような口付けを続けると、ヴィンセントは静かに腕を回して、それに応える。今までに何度かした触れるだけのそれとは違う、長い口付けだった。


触れた場所から彼の低い体温が伝わった。苦しくて、切なくて、愛おしくて、心で複雑に混ざり合った感情が、行き場をなくして閉じた瞼を割って瞳から流れていった。それに気づいたように、ヴィンセントは唇を離す。赤い瞳がじっとわたしを見つめ、黒い手袋をつけた右手人差し指がそっと涙の線をなぞった。優しい手つきに、また新しく涙が溢れて、俯いた。


「…ユリア」
「…ごめんなさい、ヴィンセント、わたし、きっとあなたに酷いことしてる…」


彼とわたしはよく似ている。きっと誰かを想うことを許されないことだと、そう思っている。けれど彼は優しくて、だから、この思いはただ彼を傷つけるだけなのだと分かっていて、それでも思いを告げずにはいられなかった。とても、とても我儘なことなのだと理解していた。


もう一度ごめんなさいと、そう告げようとした時、ヴィンセントがそれよりも先に口を開いた。


「誰かを想うことがお前の言う『酷い』ことならば……」


ヴィンセントは言葉を止めて、頬を撫でていた指を離す。
顔を上げようとした瞬間、全身が彼の体温に包まれた。


「——私も共犯だ」


低い声が秘密を打ち明けるように囁いた。


時が、止まったような気がした。


(——彼はいま、なんて——)


共犯——?何の、『酷い』こと——誰かを、想う?
全てを理解しきるより先にまた、瞳から涙が溢れて、けれどそれは彼の黒い服へと吸い込まれてゆく。低い体温の彼に、それでも力強く、掻き抱くように抱きしめられている。思いが通じた、と言うにはあまりに悲しく、切ない言葉だと思った。流れる涙が、喜びからくるのか、悲しみからくるのかも分からず、混乱の最中でただ彼の腕の中で呆然としている。


さらりと彼の髪が肩を撫でた感触で、彼が俯いたのが分かった。たくさんの感情が胸の中で暴れまわって、流れ出る涙も止まらない。


(——ねえ、もう、誰も)


わたしを赦さなくていいから。
今だけでいい、どうか、この人の隣で呼吸をさせて。


そっと彼の首に腕を回した。互いに何も言えずに黙りこんでいた。
ただ瞳を閉じて、耳元で波打つ鼓動と、わたしを抱くその力強い腕の力だけを感じていた。