踊り疲れて広間の中央から離れ、部屋の隅に置かれていたシャンパンに手を伸ばしたハルカはそう独りごちた。
あれから何人かの男性と踊ったけれど、付け焼き刃のダンスはしばらく踊っているとすぐに足がもつれてしまうし、せっかく踊っても結局言葉が通じないのだから、相手の男性とも仲良くなりようがない。いい男ゲットしてやるんだから、という昼間の宣言が虚しく脳裏に反響する。その宣言を聞いていたヒカリも、早々に逸れてしまってどこにいるのか分からないし。……まあ、終わった後に合流すればいいかなと考えて、ハルカはシャンパンを喉へと流し込んだ。
——じゃあ、また。
一息つくと、再び昼間の記憶が蘇る。あまりに一瞬のことで、時間が経つともう夢だったのかもしれないとさえ思うような、不思議な時間。
あの人、此処には来てないのかしら。そう考えてあたりを見渡したけれど、残念ながらタキシードやドレスに身を包み、仮面をつけた男女の中からほんの一瞬顔を見かけただけのほとんど見知らぬ他人を探すことは不可能に近い。無意識に首元のネックレスへと手を伸ばす。
「……グレイシア、」
小さく呟くと、まるでそれは小さな頃から何度も呼んでいたように耳に馴染んだ。遠くで猫とも犬ともつかない、不思議な生き物の鳴き声を聞いたような気がする。ハルカにはそれがなんなのか分からない。
……分からないのに、なぜだか胸が痛む。今日は本当に変だ。今までこんなこと、一度だってなかったのに。
「一体なんなのよ、」
苛立ちを孕んだ独り言は、異国の言葉の飛び交う広間で誰の耳にも届かずに消える——はず、だった。
「それは君が自分で思い出さないといけない」
「っ、あなた、さっきの……」
男の人にしては少し高い声で発される、流暢な日本語。さっきと同じだ。振り返ると、白いタキシードを身につけた細身の男がハルカのすぐ後ろに立っていた。柔らかな薄緑色の髪が揺れている。顔は仮面に隠れて見えないけれど、あの人だとハルカはすぐに気がついた。
「こんばんは、レディ。ネックレス、着けてきてくれたんだね」
「……ほ、他にいいものがなかったから、」
「やっぱりよく似合ってる」
口元が緩く吊り上がって、まるで秘密を語らうような囁き声で掛けられた褒め言葉に、ハルカは思わず頬を染めて瞳を逸らした。
タキシードを身に纏い、仮面を着けた彼は、昼間とは違う空気を漂わせている。心臓が早鐘を打つのを、ハルカも自覚していた。こんな怪しい人に。そう思っても感情はうまく制御できずに、シャンパンの入ったグラスをテーブルに置くと、ハルカはどきどきと高鳴る胸を抑えるようにドレスを握った。
「あなたのせいで変なことばかりだわ」
「それは申し訳ないな」
半ば八つ当たりのような言葉にもどこ吹く風。口元に笑みを浮かべた彼に、どこか悔しさに似た感情を覚える。まるでわたしの知らない何かを一方的に知っているかのように話す彼。会ったことさえないはずだった。
「わたし、何も忘れていることなんてないはずなのに」
「……本当に、そう思う?」
「っ、当たり前でしょ」
苛立ちをぶつけるように声を荒げると、周囲の視線が自分に集まるのを感じて慌てて下を向いて口元を押さえた。華やかな場を乱したくはなかったし、できることならハルカ自身も、舞踏会を楽しみたい。ごめんなさい、と小さく呟くと、構わない、と目の前の男が言った。
下を向いたまま視線だけを彼の方へ向ける。彼はまだ微笑んでいた。けれど、なぜだろう、どこか——
(悲しそう……?)
ほとんど話したことのない見知らぬ他人なのに、どうしてそう思ったのかはハルカにも分からなかった。けれど仮面の向こうで、翠の瞳が揺らいでいるような気がした。それになぜか自分が傷ついたような気分になって、視線を逸らしてわけもなく周りの様子を伺う——もう誰もハルカと目の前の男に注意を払っていない。ため息を吐き出すと、目の前の男が「それよりも、」と再びハルカの方へと声を掛けた。
「せっかくの仮面舞踏会だ。君もここに、踊るためにきたんだろう」
見上げると、先ほどの悲しそうな雰囲気はどこかへ消えて、彼は優雅に笑っていた。仮面もタキシードも、よく似合う人だと思った。
「わ、たし……でも、慣れてなくて、」
「大丈夫。リードするよ」
Shall we dance? 甘い声がハルカの耳を擽った。
男が右手を差し出している。左手を重ねると、その手が優しくハルカの腕を引いた。指先から伝わる少し冷たい彼の体温がなぜか無性に懐かしくて、呼吸が苦しくなる。
どきどきしたり、苦しくなったり、悲しんだり、喜んだり。短い間に激しく移り変わる自分の感情に、ハルカ自身が置いていかれそうだ。彼を前にすると不思議と冷静でいられない。
広間の中央へ再び戻ってくる。部屋にはちょうど、新しい曲が流れ出した。
「さあ、踊って」
目まぐるしく変わる自分の感情——何故だか今は、とても幸せだと、そう思う。
テンポの遅いワルツに合わせてステップを踏むと、男が背中を優しく支えた。上手、とささやくような声が耳元に落とされて、小さく体が震える。
「そうだ、ハルカ」
「っ、わたしの、なまえ……」
「そのドレスも君によく似合ってる」
「……っ」
ざわざわと響く談笑はどれも、異国の言葉で埋め尽くされて何を言ってるのかなんてさっぱり分からない。そんな雑音の中で彼の話す言葉だけが、やけに鮮明にハルカの心に響いた。
どうして名前を知ってるの。グレイシアって何。わたしは何を忘れているの? 尋ねたいことはたくさんあった。何も分からなくて、どこから尋ねたらいいのかも分からない。
「……ようやく会えた」
頭上から響いた言葉に、顔を上げる。足を止めることなく踊り続けながら、男はハルカをじっと見下ろしていた。なんでもない、と重ねた彼に何を返せばいいのか分からずに、ただステップを踏み続ける。
ワルツは程なくして終わりを告げた。広間を満たすざわざわとした話し声は大きくなったはずなのに、ハルカには寧ろ全てが遠ざかってゆくように感じられた。小さく息を吸って、それから口を開く。
聞きたいことはたくさんあった。けれど、結局口から出てきた言葉はそのどれでもなかった。
「……わたし、あなたのこと、知らないわ」
「……ああ」
「でも……」
知ってる、気がする。消え入りそうな声でハルカが言うと、目の前の男が小さく息を呑んだ。
(わたしが、自分で思い出さないといけないこと……)
わけがわからないと思う。どう考えたって怪しい人だ。一度も名乗ったことがないのに名前も知っているなんて。それなのにどうしてか、彼が悪い人だとは思えなかった。それどころか、心のどこかでもう一人の自分が、このまま、忘れたままじゃダメだと叫んでいるような気がする。けれど、何を思い出せばいいのかさえ分からなくて、それでどこか心にモヤがかかったような気分で——
「……さっきはあんなことを言ったけど、」
ふと、そんなハルカの思考を遮るように彼が口を開いた。
「え?」
「今は何も考えなくていい。だから、」
僕と踊ってくれないか。男が言った。縋るような声に、ハルカは考える前に頷いていた。
ハルカの頬を男の指が撫でる。男の人とは思えないような、細くて綺麗で、長い指。導かれるように顔を上げた。仮面の向こうで彼がどんなふうに彼女を見下ろしているのか、ハルカには分からない。けれど、優しく瞳を細めているような気がした。応えるように瞳を閉じて、そっと体を動かして、彼の方へと顔を寄せる。
初対面の人とそんなことをしたのは初めてだった。何故だろう、そうするのが、自然な気がして。閉じた視界の向こうで暖かな何かが唇に触れて、それからすぐに離れてゆく。それに少しの名残惜しさを覚えた。もういちど、と強請れるほど、親しいわけではないけれど。
遠くで新しい音楽が流れ始めたような気がする。薄く瞳を開いて、おどりましょう、と囁けば、ああ、と吐息混じりに彼が返した。舞踏会はまだ終わらない。
シュウハル書きのAyahaさん(pixiv / Twitter)のもとに届いていたリクエストが面白そうだったので勝手に書いてしまいました。話を綺麗にまとめられなくて、ここから始まる壮大な長編のプロローグみたいな話になってしまいましたね……続きません笑
実は作中キャラ同士のカプって書くのが初めてで、夢との違いや難しさをひしひしと感じました。これもまた経験……勝手に書くことを許可してくれたAyahaさんありがとうございました。
← | →