醒めない夢に沈む夜
「ハルカ、どうしたの?」
「……え? あ、ううん、大丈夫大丈夫……」
それはヒカリの方の口癖だと思いながら、ハルカは慌てて笑みを作った。
二人はドレスを身に纏って隣り合ったドレッサーに座り、それぞれ化粧を施されている。桃色と赤を貴重にした明るいドレスを纏うハルカとは対照的に、夜空のような深い青のドレスを身につけたヒカリが怪訝そうな表情を浮かべて、目線だけでハルカの方を見ていた。
「本当に? 昼間戻ってきてから様子が変だよ」
「ううん、本当になんでもないの……ガイドなしで街を歩くのに疲れたのかも」
「ええ……? 舞踏会はこれからなのに、大丈夫? 休む?」
「も、もちろん大丈夫よ! いい男見つけるって決めたんだから」
それならいいけど、と前を向いたヒカリに小さくため息をついた。
昼にあったことを、ハルカはヒカリにも話せずにいた。あの後そのままホテルに戻ったハルカが今持っているのはあのバラの首飾りだけ。選んだドレスは特にアクセサリとの相性を意識したわけではなかったけれど、同じ赤なので身につけて違和感はなさそうに見える。首周りは化粧をするのに邪魔だからと、まだ何も身につけてはいない。
「ねえヒカリ、『グレイシア』って知ってる?」
「『グレイシア』? 聞いたことないわ……飼ってた猫の名前とか?」
「ううん、そうだったかも……」
「なあに? 突然」
「なんでもない」
ヒカリに聞いたところで分かるわけがない。わかってはいたけれど、どうしたのかと尋ねるヒカリに何を言えばいいのか分からずはぐらかすと、ヒカリは不思議そうに首を傾げていた。気まずげに笑っているとちょうど、メイクを施してくれていた女性が何かを告げて離れていった。
「わあ、素敵……!」
「本当だわ、プロに任せるとやっぱり違うわね!」
感嘆したようなヒカリの声に、ハルカも声を弾ませた。立ち上がったヒカリは自分に施された化粧と昼に選んだアクセサリたちに気を取られて、先ほどの話は頭から抜け落ちていったようで、髪飾りをいくつか選んでは鏡の前で頭に乗せている。ハルカも内心ほっとしながら、同じようにバラの首飾りを手に取った。鏡の前で鎖骨の間にトップを置けば、やっぱりドレスと合わせて違和感はない。
——舞踏会にはそのネックレスを着けておいで。
不意に蘇る、昼間の記憶。
着けてゆかなければならない理由があるわけではなかった。自分で持ってきたアクセサリはこれだけだけど、この場で別のものを借りることはできる。それでも結局、ハルカはそのネックレスを首に掛けた。
首元で、赤い石とバラとがキラキラと輝いている。それになぜだか、胸が苦しくなった。
「ハルカ、これ忘れてるよ」
「あ、ありがとう……って、」
後ろからヒカリに声を掛けられて振り返り、視界に入ったそれに思わず言葉を止める。彼女が持っていたのは、ハルカのドレスの一部だった。背中を留める、サッシュベルト。蝶の羽根のような飾りが着けられていた。
「これ……」
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもないわ。着けるの手伝ってくれる?」
「ええ、もちろん」
ヒカリが背中に回って、腰元を軽く締めた。手際よく飾りを着けると、ヒカリの手が離れてゆく。鏡に背中を向けて首を回してどうにか後ろを見ると、まるで自分に小さな羽根が生えたように見える。
とても可愛い飾りだと思う。けれどなぜだか、それを、ずっと昔から知ってるみたいな感覚——まるで今日の昼、あのバラの首飾りを見た時のような——
「あ、ドアが開いた!」
ヒカリが弾んだ声で言うのが聞こえてはっと振り向いた。ヒカリの見ていた方へと視線をやれば、ちょうど大広間への扉が開かれたところだった。ドレッサーの周りを除けばあまり明るいとは言えない更衣室とは対照的に、大広間からは眩い光が差し込んでいる。期待に小さく胸が鳴った。
「はい、ちゃんと仮面も着けないとね?」
「そうだったわ、ありがとう」
ヒカリに今回の主役でもあるアイテムを手渡され、鼻から上だけを隠すそれを身につけると、それだけでどこか自分が別人になったような錯覚を覚える。行きましょう、とヒカリに声を掛ければ、同じように目の周りが仮面で隠された彼女が口元だけで笑って頷いた。
なんだか今日は変なことばかり考えている。調子がよくないのかもしれないとも思う。それでも、ヒカリと並んで扉をくぐれば、自然と気分が高揚した。扉の向こうには大広間——天井には美しい天使の絵が描かれ、大きく吊り下がるシャンデリア、周囲の柱にも華やかな装飾が施されていた。
「素敵……中世ヨーロッパって感じかも」
「『ロココ建築は中世じゃない』ってガイドさんに何回も言われたけどね」
「そうだったわ」
頭の悪い会話をしていても多分、参加者に日本人は彼女たちくらいだから周囲に気取られることはない……といいなと思う。ヒカリと笑い合ったところでちょうど、ヒカリが背後から誰かに声を掛けられて背中を向いた。それをぼんやり見ていたハルカにも同様に、仮面を着けた黒髪の男性が歩み寄ってくる。目の前で一例をした男性に、ハルカも慌てたように大きくお辞儀を返した。
「……〜〜〜……〜?」
「へ? あ、そ、ソーリー?」
流暢な外国の言葉で何かを話しかけられて、戸惑ったようにそう返すと、目の前の男はにこりと笑って短くdanceと言った。……dance。ダンス。
(踊ってください、ってこと?)
男性は無言で右手を差し出している。ハルカは少し迷って、それからその手に自分の左手を重ねた。気づけば近くにヒカリの気配はなく、彼女はもう、どこかで誰かと踊っているのだろう。この日のためにワルツも練習した。流れている曲に合わせてステップを踏めばいい。
せっかく来たんだから、楽しまなくちゃ。そう考えて、彼女を導くように広間の中央へと歩いてゆく男性に寄り添ってハルカもまた歩き出した。