滴、はじけて


 薬を飲んだことを確認したシンジはようやくため息をついた。シンジにできることはこれで全てだった。
 額に手を当てる。まだ熱い。明日まだ熱が下がらなければポケモンセンターへ連れてゆくしかないだろう。

 額から手を離して、自分のテントを設営しようと離れた、その瞬間のことだった。

「っ、おい、」

 思わず息を詰める。
 眠ったままの名前が、シンジの手を強く握っていた。

「……つ、めた……」

 彼女の小さな声が聞こえる。それから、シンジは動揺で瞳を揺らした。
 擦り付けるように、彼の手を頬に寄せ、幾分か眉間の皺を緩めて。薄く微笑んでいるようにも見えた。
 ……熱い。それが触れた頬の熱なのか、自分自身の内側からくるものなのか、彼には分からない。
 ただ、信じられないような気持ちで彼女を凝視した。どうすればいいのか分からず、心臓が痛みだすのを感じながら、それでも彼女を、馬鹿みたいにじっと見つめていた。

 サーナイトの鳴き声が聞こえる。はっとして、シンジは後ろを振り向いた。
 テントの向こうで、名前のポケモンとシンジのポケモンが、心配そうに此方を覗き込んでいた。ポケモンたちが二人の様子を見ているのにどこか気まずい気持ちにさせられた。

「サーナイト、サイコキネシスで手を離させろ」

 近寄ってきたサーナイトにそう指示したが、頬に寄せられる手と、主の表情を見て、サーナイトは小さく首を振る。
 ――おねがい、そばに。落ち着いた青年のような声が、脳に直接響いた。

「……テレパシーか」

 すべてのポケモンではないが、エスパータイプにはときどき、テレパシーで己の感情をトレーナーに伝えることができるポケモンがいるという。
 ここでサーナイトの言葉に従う義務も理由も、シンジにはない。けれど穏やかに笑うそのポケモンと、それから相変わらず彼の手を掴む彼女の少し穏やかな寝顔とを見ていると、何故だか何も言えなくなって、結局、ため息をついてそのどちらからも視線を逸らした。

「今夜だけだ」

 向こうに待つシンジのポケモンたちが驚いたような反応を取るのが分かった。シンジはそれを罰が悪そうに見遣る。

「明日は起きてすぐに出る。さっさと寝ろ」

 暗にお前たちもだ、と伝えるように、シンジは自身のポケモンと、名前のポケモンにも視線を遣る。
 シンジのポケモンたちは慣れたように一声鳴いて、各々が眠る体制を取った。名前のポケモンたちもそれに倣って眠る準備に入る。
 サーナイトも微笑みながらテントを離れてゆく。サイコキネシスで持ち上げられていた入り口の布が落ちると、豆電球で照らされた薄暗い部屋に二人で残された。
 右手が熱い。座り込んでなるべく楽な体勢を取りながら考える。
 実際、一晩くらいこうして眠ったところで困ることはない。どうせ明日はポケモンセンターに戻るのだから、そこでゆっくり休めばいい。
 右手に伝わる熱を感じながら、瞼を降ろす。眠れるだろうか――まるで他人事のようにそう考えながら。






 寝返りを打って、テントの布の向こうから差し込む光から逃げるように俯く。朝だ……目を擦ろうとして、暖かな何かを掴んだままだったことに気がついた。
 薄く開いたまぶたの向こうは霞んでいて、よく見えない。暖かなそれは少し硬い。無意識に握り直すと、まるで握り返されるようにむこうの力も強まった。

「っえ、……?」

 握り返す?
 突然さっと頭が冷えて、視界がクリアになったような錯覚。顔を上げると、その先に眠る、

「……シンジ」
「……、起きたか」

 あたしが呼びかけたのに気がついてか、シンジもあたしの言葉に返す。手を引っ込めると、何事もなかったみたいにその手は離れていった。
 ……つまり、だ。シンジは昨日、此処で寝た……らしい。考えられる原因はもちろんあたしだ。

「……その、ごめん。昨日のこと覚えてなくて……」

 いつの間に手を掴んだんだろう。無意識だったのだろう。どれだけ考えても思い出せそうになかった。
 心臓がドキドキと早鐘を打つ。もう一度彼を見上げたけど、何を考えているのかは分からない。

「……構わない。熱は下がったのか?」

 そんな言葉が返ってくるとは思わなくて、驚きでうまく言葉が紡げないままどうにか、うん、とだけ返した。
 実際頭痛と怠さは若干残ってはいたけれど、悪寒とか熱は引いている。

「……そうか」

 シンジはそれだけ言うとテントを出ていった。
 一人、取り残される。

「……うそ」

 あまりに意味がわからなくて思わずそう漏らす。
 あたしが手を握ってしまったのだとして、起こしもせずにここで、いっしょに眠っていた? ……いっしょに、一晩?
 心臓は相変わらずばくばくとうるさい。
 こんなことシンジでなくとも今までなかったし、それに、シンジが何も言わずにただここにいてくれたなんて、普段のシンジの行動から全然繋がらないし。

「わけ……、わかんない……っ」

 ぎゅっと両腕で自分を抱きしめる。瞳を閉じてそのままでいれば、ようやく少しずつながら冷静さを取り戻していった。

 そこでようやく、昨日の夜から碌に状態も確認していない、自身のポケモンたちのことを思い出した。
 今の今まで忘れてたなんてトレーナー失格だ。慌てて起き上がってテントの外へ出ると、それに気がついた名前のポケモンたちが一斉に駆け寄ってくる。

「みんなごめん……!」

 ウィンディが軽くたいあたりを腰にぶつけると、本調子じゃないあたしの体は簡単によろめいた。
 倒れそうになるあたしにウィンディは驚いたような顔を浮かべている。ごめん、と思いながら重力に従って視界が揺らぐ。

 ぐい、と強い力に引かれて、硬い何かに支えられて、咄嗟にそれを掴んだ。感じるはずの衝撃はいつまでも訪れない。

「何をしている」

 その声は思ったよりも近くで聴こえる。
 それでようやく、自分が掴んだものの正体に気がついた。

「えっ……あ、シンジ、ごめ、」

 慌てて離れたあたしをいつもどおりの冷たい瞳が見下ろしていた。

「使えない」

 冷たい視線と言葉とに、いつもどおりのシンジだ、なんて、安心感さえ覚える自分がいた。
 ごめん、と返してすぐ、ウィンディの方へ向き直る。ずっとそちらを見ていたら変な気分になりそうだったし、なによりウィンディは悲しそうに小さく鳴いていたから。

「ウィンディ、ごめんね。まだ本調子じゃないんだ……一昨日のポケモンセンターに戻ろう」

 ウィンディはしょんぼりとした風に一度鳴いて、自分からボールへと戻ってゆく。
 他のポケモンたちをボールに戻すと、改めてシンジに向き直った。

「昨日から今までありがとう。迷惑かけてごめん」
「ああ、とんだ迷惑だ。旅も予定より遅れる羽目になった」

 返す言葉もない。元はと言えばシンジにはなんの関係もなかったはずなのに、あたしのポケモンに巻き込まれてここにいるのだから。
 視線を下げたあたしの様子を見てか、正面からため息をつく声が聴こえた。

「……さっさと着替えてテントを片付けろ」
「……え?」
「ポケモンセンターに戻るんじゃないのか?」
「……シンジ?」

 視線をシンジのほうへ戻すと、彼は此方を睨みつけている。早くしろ、と言わんばかりに。けどそれって、

「……いっしょに来てくれるの?」
「また倒れて呼び出されるよりマシだからな。それにバトルの約束をしたはずだ」

 ああ、そうだ、バトル。
 ついてくる理由が「また倒れるかもしれない」だけじゃないことは、わたしを幾分か落ち着かせた。
 ごめん、とだけ言って、急いで着替えを掴んでテントの中へと入る。

 服に手をかけながら、もう少しだけいっしょにいられる時間が伸びたことに、形容しがたい感情が胸に湧く。
 戸惑いながら、服を着替えて、テントをたたむ。リュックを背負うまで、シンジは黙って近くの手頃な岩の上に座ってあたしを待っていた。

「ごめん、待たせたね」
「……フン、行くぞ」

 来た道を戻るという、彼にとっては完全に無駄な旅路。
 体調の良くないあたしをウィンディが背負って歩き、シンジはその隣を何も言わずに歩いていた。

 申し訳ないな、とも思う。
 けれど口でいうほど、彼が苛立っている様子もない。もともと表情の読み取りづらい人ではあるけど、怒ってはいなさそうだ。

 あたしは。
 いろんなことが一度にあってわけがわからない。助けてくれたこと、手を握っていてくれたこと、あたしよりずっとがっしりとした体で、あたしを支えてくれたこと。
 隣を歩く彼が昨日までとまるで別人みたいに思えた。

 こんな状態であたしの心臓は持つんだろうか、とか、相手はあのシンジだぞ、とか、そんなことばかりが頭に浮かんて、今しばらく落ち着きそうにない。ぎゅ、とウィンディの毛を掴んで前を向いた。
 歩く人の数は多いのに、昨日とは対称的な、静かな旅だった。