滴、はじけて


 心臓が痛いくらいにばくばくと音をたてだした。しまった——そう思って奥歯を噛む。
 目の前には10は優に超えるだろう数のスピアーの群れ。全員があたしひとりにそのお尻の棘を向けている。

 この森にスピアーの縄張りがあることは、ここに来る直前にジョーイさんから聞いて知っていた。迂回していたからここで遭遇することはなかったはずだ。
 でも、現にスピアー達は明らかにあたしに狙いを定めている。——産卵期で気が立ってるみたい、というジョーイさんの声が虚しく脳裏で響いた。

「っ、ウィンディ!」

 咄嗟にモンスターボールを投げれば、ボールの中で状況を把握してたらしい賢い彼はスピアーの群れに向かって大きく一度吠えた。狼狽えたように空中で後ずさるスピアーを確認してすぐ、ウィンディに飛び乗る。
 ウィンディはスピアーたちに背を向けて駆け出した。大きな躯に見合わない器用な動きで森の木々を縫って加速してゆく。頭を伏せて、暖かなウィンディの毛をぎゅっと握りしめた。

 ほどなくして加速が止み、体を起こして周りを確認するも、状況は好転していない――木々の上からスピアーの群れが見えた。

 産卵期のポケモンは迂闊に近づけば襲い掛かってくることもあるけど、基本的には卵の周りを無防備にしないため、少し離れれば戻ってゆくはずだった。
 それが、どうだろう。最初に遭遇した場所からはもうだいぶ離れたはずだ。

「どうして……」

 その疑問に答えてくれる人はいないし、答えがわかったところでこの状況が変わるわけでもない。
 そして、気掛かりがもう一つ。森の向こうに出口が見えて、どうする、と問うようにウィンディが鳴いた。
 この先には小さな湖がある。開けた場所ではウィンディは不利だ。物理攻撃が主体のウィンディにあれだけの数のスピアーを一掃できる技はない。少なくとも無傷では済まないだろう。

「……ウィンディ、いくよ」

 ウィンディは頷いた。木々が途切れ、スピアーたちがいたぞとばかりに一直線にこちらへ飛んでくる。
 賭けだった。でも、それしか浮かばなかったのだ。湖に一直線に走るウィンディへ向かって、ぎりぎりのところで叫んだ。

「跳んで!」

 指示に合わせて高く飛ぶウィンディにモンスターボールを向け、同時に大きく息を吸い込む。ウィンディの全身が赤い光に包まれたのを確認してすぐ、全身が水に包まれた。すぐにウィンディのボールをしまうと、次のボールを出す。
 水中でまた、赤い光が瞬いて、さっきとは別のポケモンが顔を出した。

(……ハスブレロ、お願い)

 声を出せないから、代わりに指を上へ向けて指示を出す。ハスブレロはおろおろとあたしの体に触れたり離れたりしていたが、あたしの指示にすぐに頷いて水面へと向かって泳いで行った。

 ぶくぶくと、口から息が溢れてハスブレロと一緒に水面へと昇ってゆく。
 水中で息を止めるのに慣れてなんか当然ないから、息は苦しいし全身が冷たい。服が体に張り付いて上手く動かせないせいか、体もどんどんと沈んでいく。

 ぐ、と強い力があたしを引いた。
 いつの間にかあたしのところまで降りてきたハスブレロが頷いて、あたしを水面へ引き上げようとしていた。頷き返して、手足を懸命に動かす。

 ばしゃん、と音がして、数十秒ぶりの空があたしを出迎えた。スピアー達の姿はない。獲物を失って冷静になった彼らは縄張りへ戻っていったのだ。

「よ、かった……」

 ハスブレロが鳴き声を上げた。無理をしたあたしを咎めるような声に、ごめんねと言っていっしょに陸の方へと泳ぎだす。
 ちょうど、その時だった。
 
「何をしている」

 泳ぐその先で、見慣れたトレーナーが立っていた。

「……シンジ」

 ハスブレロの助けを受けながらどうにか陸に上がって、小さくくしゃみをする。ハスブレロを見ていたあたり、野生の個体と間違えて捕まえにきたのかもしれない。
 そうだとしたら申し訳なかったな、と考えて、じっとこちらを見下ろす彼を見返した。

「前のポケモンセンターで近くにスピアーの縄張りがあるって話は聞いた?」
「……ああ」
「多分、だいぶ東に移動してる……迂回してたのにぶつかっちゃって、追いかけられたんだ」

 理由は分からないけど、と続けると、シンジは一瞬眉を寄せて、それから組んでいた腕のうちの片方を何か考えるように顎に添えた。

「元の縄張りが通れる状態なのかも分からないし、西に周るか……安全を考えると一度戻るのが賢明かもしれないね」
「……お前はスピアーとの戦いを避けるためにそんな無茶をしたのか」
「え? ……あ、ああ……まあ、ポケモンたちに無茶はさせられないし、スピアーの方も倒しちゃったら卵を守れなくなるから……」

 そこまで言ってもう一度くしゃみをする。寒い。
 太陽はようやく西へ傾き始めたくらいで、本当ならもう少し先へ進みたいところだけど、着替えたり服を乾かしたりするならもう無理だろう。

「ヌルい奴」

 シンジはそれだけ言うともう興味を無くしたというように背を向けて、森の方へと歩いて行った。
 ハスブレロと顔を見合わせる。たしかに、シンジだったら追い払えていたのかもしれない。

「……とりあえず着替えるね。ハスブレロ、ありがとう」

 声をかけてハスブレロをボールに戻すと、リュックを下ろした。