大波のように


「ごっ、ごめん、あの、痛そうだったからつい……」
「……いや、」

 一瞬だったのか、随分と長いことそうしていたのか。シンジには正直なところよく分からなかった。ただはっとしたように手を離したナマエにようやく魔法の解けた彼はナマエから視線を外した。
 他に視線のやり場もなかったから、相変わらず飛び回って光を放つバルビートを眺める。右手はまだ、彼女から伝わった熱でほんのりと暖かい。ひどく狼狽していて、それ以上の言葉も発せなかった。
 一度、深く息を吸う。そして吐いて。心臓が痛い。ちらりとナマエの様子を伺えば、真っ赤な顔で視線を泳がせていた。

 ――「それ」を理解できないほど子どもなわけじゃない。
 ただ同時に、上を目指すために必要なものだとは到底思えなかった。
 あのピカチュウのトレーナーと旅をしていることとか、兄と連絡を取るたびに酷く楽しげにナマエとはどうなんだいと尋ねてくるところとか、今日だってあのブロマイドを持って真剣にテレビを見ていたこととか。色々なことがどれだけシンジの心をざわつかせても、気付かないふりを貫いてきた。

 今だけは、それができそうになかった。
 離れていった手の温もりが惜しいと思ったし、頬を染めてそっぽを向く彼女を、可愛いと思った。
 ……愛おしいと思った。

「……綺麗だな、」
「へ?」
「バルビートだ」

 感情すべてを言葉にできるほど、素直にはなれない。代わりに発した言葉もじゅうぶんに普段のシンジからすればらしくないものだったけれど。

 ナマエはシンジのその言葉に、嬉しそうな声で自慢なんだ、と返した。それから静かにバルビートを見つめていた。
 こんなふうに穏やかな気持ちになるのはいつぶりのことなのか、シンジには思い出せない。いつも追い立てられるように旅を続けていた気がする。ポケモン達にも自分にも、甘えを許したことはなかった。
 ここでただ立っているだけで無為に時間が過ぎてゆく、それは無駄でしかないと分かっている。それでもここから離れようとは思えなかった。それが何よりシンジ自身のナマエへの思いを表しているようだった。




 いつまで、とか、そんなことは考えていなかった。早く戻った方がいいとは分かっていたが、今日はどうにも理性的になれない日だと思う。
 それを壊したのは遠くから聞こえる大きな衝撃音だった。突然のそれにシンジはすぐにナマエと視線を交わして、ボールに手を伸ばして辺りの様子を観察する。音が聞こえたのは――

「あっちだな」
「うん、行ってみようか」

 ナマエはバルビートをボールに戻した。音のする方へと近づくと、再び先ほどと同じ音が響く。静かな夜だったので、それは森に広く響き渡って遠くのホーホー達が飛び立ってゆくのが見えた。
 断続的に響く音が近づいてくる。音の主同じ場所から動いていないらしい。少し警戒度合いを落とし、ボールからは手を離したシンジがナマエと共に音の主の方へと歩み寄る。木々の向こう、ポケモンセンターのすぐ向かい。少し開けたその場所が見えると、音の主が明らかになった。

「あ、ハヤシガメ……」

 相手に見えないように大きな木の陰でそっと様子を伺う。
 そこにいたのは、ちょうど昼間にシンジとバトルをしたポケモンの姿だった。何度も走っては、途中で足を引っ掛けて転ぶ。立ち上がってまた走り出す。響いていたのはハヤシガメが転ぶときの音だったらしい。

 ――結局いつだってシンジの邪魔をするのはあのトレーナーなのだ。今回本人は不在なようだが、その手持ちならば同じようなもの。無意識のうちに小さく眉を寄せた。

(コイツが、)

 コイツがいなければ。……いなければ、どうだというのか。小さく舌打ちをして、瞳を逸らした。あの場から離れたからか目の前のハヤシガメのやっていることがあまりに馬鹿馬鹿しかったからか、少しずつシンジの頭に冷静さが戻ってくる。ナマエもまたいつもの雰囲気を取り戻して、首を傾げて呟いた。

「あれ、サトシの……?」
「だろうな。ナエトルのときのスピードを取り戻そうとしているんだろうが……無駄なことを」

 尋ねられたことを一瞬不思議に思ったが、すぐにそういえばあのバトルのとき彼女は不在だったのだと気付いた。話には聞いていたのかもしれない。大丈夫かなあと心配げに見つめている。シンジにはどうでもいいことだ。
 完全に冷静さを取り戻したシンジは、冷たい目でハヤシガメを睥睨していた。さっさと部屋に戻ってしまってもいい。けれど出てきたばかりのハヤシガメを追いかけてそのトレーナーが来ていたら、どこかですれ違ってしまうかもしれない。こんな時間に会いたい相手では決してなかったし、そんなことになれば少々面倒だとも思う。結局隣のナマエとともにハヤシガメの観察を続けるしかなかった。

 走っては転び、起き上がって再び走り出してはまた転ぶ。そもそもハヤシガメの体は高速で走り回るようにはできていないので、あの特訓には基本的になんの意味もない。見つづける価値のあるものとは到底思えなかった。

 やがて彼らの他のポケモンたちがやってきて、その特訓を手伝おうとしだす様子さえも興味なさげに見ていたシンジは、しかし遠くからハヤシガメのそれよりもずっと重々しい聞き覚えのある足跡に反応して視線を遣った。
 ハヤシガメは体重が100キロを超える大型のポケモンだ。それよりも重いポケモンには限りがある。

 ――たとえば、そう。そのハヤシガメの進化形、ドダイトスだとか。他にもいくつかいるが、数はそう多くはない。
 見慣れたシルエットがハヤシガメの方へと近づく。紛れもなくそれは、シンジがはじめて手に入れたポケモンだった。

「アイツ……余計なことを」

 思わずつぶやいた言葉に、左隣から視線が向けられるのを感じた。シンジのポケモンなのかと尋ねた彼女に肯定を示しながら、昼間のドダイトスの様子を思い出す。そうしている間にもドダイトスは、グライオンと向き合って戦闘態勢を整えていた。

「シンジのドダイトス、親切だね」

 無関係のポケモンにバトルの指南をすることを、ナマエは親切だと言った。シンジには意味のない行為に見える。無駄でしかないのにヌルいなと思ったけれど、横のナマエはそうは思わなかったらしい。ニコニコと笑みを浮かべてドダイトスやハヤシガメを眺めるナマエは酷く楽しげだった。

「シンジに似たんだよ、きっと」
「オレに……?」

 眉を寄せるシンジを構うこともなく、ナマエは続けた。

「今日だってあたしにご飯持ってきてくれたでしょ。何だかんだで気を遣ってくれるし怪我した時は心配もしてくれたし……」

 挙げられる具体例は、ナマエとシンジだけが共有している記憶だ。いつだって彼女は旅の同行者と共にいるときは気を遣ってシンジに近寄ってくることはない。

 ――それは、お前だから。言い返そうとして結局、口を噤んだ。それは不要なものだと切り捨てていたつもりでいたが、きっと最初からそんなことはできていなかったのだ。そう突きつけられたことがどこか気恥ずかしかった。

「あ、サトシたちだ」

 呑気にそう笑うナマエはきっと何も気がついていないだろう。それに安心しているのか、或いは残念に思っているのか、シンジ自身にも分からなかった。
 ……休憩は終わりだ。遠くに見える影に、そう思い直す。

「オレはもう行く」
「うん。おやすみ、今日はありがとう」

 こんな夜にまでアイツに絡まれるのは御免だ。そう表情が語るシンジを、何も言わずにナマエは見送った。やっぱり惜しいと思ったことには、今度こそ気づかないふりをした。
 ナマエの同行者たちに気づかれないように、遠回りをしてポケモンセンターの裏口からそっと中へと入る。窓の向こうには彼女が他のトレーナーたちと何かを話しているのが見えた。ハヤシガメのトレーナーもまた、ハヤシガメの前に座り込んでいる。シンジのドダイトスはゆっくりとポケモンセンターに戻ろうとしていた。

 ――シンジに似たんだよ、きっと。
 つい先ほどまで隣りにいた、ナマエの言葉が蘇る。

 いつも傷だらけで危険を顧みないナマエがどこか危なっかしくて、気づけば目で追っていた。かと思えばピカチュウやムクバードを容赦なく追い詰める冷静なバトルと真剣な表情に惹き込まれた。いつからそうだったのかはシンジ自身にも思い出せない。ドダイトスも危なっかしいバトルスタイルのハヤシガメが見ていられなかったのだとしたら、なるほどナマエの言葉もそう的外れではないのかもしれない、と思う。
 自分でも馬鹿馬鹿しいと思っている。ナマエが愚かだとか、魅力的でないとかそういうことを言いたいわけではないけれど。彼女を助けたところでシンジに得られるものなんかないはずだ。それでもシンジはナマエの傷を心配するし、食事を忘れていたら届けもする。結局無視することも切り捨てることもできていなかった。

 廊下の向こうからゆっくりとドダイトスが歩いてくる。ドダイトスはシンジがそこにいたことを知っていたかのように、動揺することなくシンジの前で歩みを止めた。

「おまえも、物好きなやつだな」

 それはドダイトスに言ったのかもしれないし、自分に言ったのかもしれなかった。ドダイトスは主の心情をどこまで察したのか、表情を変えぬまま一度鳴いた。