大波のように
「……ここにいたのか」
「っ、え? あ……シンジ?」
バルビートはシンジの方へと戦闘態勢を取っていた。どうやら近づいてくる気配を警戒していたらしい。それは良いが、そもそも人が近づくのを警戒しなければならないような時間にこんな場所で一人でいることの方に気を回すべきではないか。そんなシンジの心情に気づく様子もなく、首を傾げたナマエはシンジに問いかけた。
「え、と……どうしたの? シンジもポケモンの特訓に来たの? あたし邪魔なら場所譲るけど……」
「違う」
まるで見当違いだ。一体何を言っているのかと頭を抱えそうになりながら、手に持っていた袋を半ば押しつけるように差し出す。受け取ったナマエは中身を開いて再び瞳を見開いた。
「……おにぎり……もしかして、タケシ?」
肯定を示すと、なるほど、と納得してすぐにお腹を摩った。察するに、時間を忘れて特訓していたが、食事を差し出されて夕食を取り忘れていたことに気づき、同時に自分の空腹も自覚した、というところだろう。
ナマエはバルビートに休憩を指示すると、バルビートのためのポフィンを鞄から取り出し、ナマエ自身も食事を取るために手頃な木の下に座り込む。バルビートは嬉しそうにポフィンを両手で掴んで食べ始めた。
点滅する光と、バルビート。ようやくこんな時間に森にこもっていた理由を察した。
「『ほたるび』か」
「うん。でもなかなかうまくいかなくて」
座って食事を摂るナマエを横目で見下ろす。俯くナマエの表情は伺えない。
ナマエは昼間握っていたブロマイドを取り出した。緑髪の青年がこちらへ向けてポーズを取っている。よく見れば右下にはサインが入っていた。
「このバルビートで、リョウさんのアゲハントとバトルさせてもらったんだ」
全然歯が立たなかったけど、とおどけたように笑うのを静かに見つめながら、シロナのトリトドンと戦っていたアゲハントか、と昼間の記憶を思い返す。
そんなことがあったのかと内心驚いたが、相手はあの四天王だし、それ自体は当然の結果だろう。そこでリョウから受けたアドバイスをもとに『ほたるび』の習得のための特訓を、バルビートが最も活発に活動できる時間帯である日没後を中心に始めた、というのがこんな時間まで森の奥で一人特訓を続けていた理由だったらしい。
トレーナーとして最初に考えたことは「まだそこか」ということだ。『ほたるび』はバルビートの主力技の一つとして当然候補に入れるべき技。シンジのそんな冷静な指摘にナマエは舌を出して笑った。
そう言われるだろうことはわかっていた、と言わんばかりだが本人としてもなにか理由がある風で、シンジもそれ以上追求することはしなかった。つい昼間にバトルをした彼女の同行者と違って、彼女自身は気合とか根性でポケモンに無理をさせるよりも、確実に勝つために論理的にバトルを組み立てることを好んでいるのは知っていた。その彼女が敢えて選択してこなかったことに、なんの理由もないとは思えない。ただ、結局習得することに決めた以上はその理由を尋ねる意味ももうないだろう。
いずれにせよバルビートは『ほたるび』を後少しで完成させるというところまできているようだ。いずれバトルしてみたいと思う。現実として、彼女の隣にはいつもシンジに突っかかるトレーナーがいるから、必然的にそんな機会はほとんど巡ってこないのだけども。
空気が冷たい。風はそう強くはなく、夜は静かだ。
もともと、シンジの役目は最初で終わるはずだった。タケシから頼まれた荷物を渡して、ポケモンセンターに戻ればよかった。けれどなぜだか立ち去る気にはなれずに、会話が途切れてもまだ此処に立っている。食事を終えたらしいバルビートが飛び上がって光を瞬かせながら飛び回るのをじっと眺める。すぐ横ではどうやら最後の一つを取り出したらしいナマエが、紙袋を畳んで仕舞い込んでいた。
ふいに、ナマエが再び口を開いた。
「シンジもシロナさんとバトルしてたよね」
嫌なことを聞く、と思った。
ナマエの話を聞いて思い出したことがある。あのヒコザルがまだシンジの手持ちだったころ。シロナのガブリアスを倒すためにバトルを挑んで。その場にはこのトレーナーも、今そのヒコザルを育てている彼女の同行者もいて。
「ああ。……オレも、全く敵わなかったが」
やるからには勝つつもりで挑んだし、そのための作戦も立てた。それらはすべて、圧倒的な力を前にあまりに無力だった。
その強さを覚えている。そして、そのときに感じた悔しさも。
(――こいつも、)
同じ感情を、抱いているのか。
枝が折れる小さな音が響いた。それからすぐに、暖かな何かが手を包み込む。それが隣りに座っていたトレーナーのものだと、すぐには認識できなかった。
「手、傷がついちゃうよ」
彼女の両手がシンジの右手を掴んで、ゆっくりと解く。痛々しい、というように眉を下げて笑うナマエを、シンジは呆然と見つめていた。
手のひらから伝わる温度はシンジのそれよりも随分と暖かい。バルビートの光が揺らぐたび、白く浮かんで消える表情。羽音は不意に遠ざかって、頭の中で何度もナマエの言葉が反響していた。
まるで何か魔法に掛けられたように、微動だにもできなくなる。ただ吸い込まれるようにじっと、彼女を見つめることしかできなかった。