きらきら


 そこにある全てが、息を呑むくらいに美しかった。

「シンジ? いつの間に」

 はっとしてシンジは「お前か」と返した。気づけば流れていた音楽は止まっていた。ナマエがそっと手に持っていたものを離すと、風に乗って何処かへと飛んでゆく——一枚の葉は、彼女が背中を預けている木の枝から落ちたものだろう。わけもなくその葉が風に揺られるその先を見失うまで追いかけて、それから視線を彼女の方へと戻した。
 マニューラがナマエの足元に丸くなって眠っていた。寄りかかっている木の枝の上ではドンカラスがレイジのムクホークと並んで静かに下を見下ろしており、普段は荒っぽいリングマでさえ、近くに座って瞳を閉じている。傍らのドダイトスの大きな甲羅の上にはたくさんの野生の鳥ポケモンたちが集まって、ナマエの音楽に聞き入っていた。たくさんのポケモンに囲まれて、ナマエがその曲を奏でていた。
 草笛が吹けるのか。率直にシンジはそう思ったが、その光景があまりに神秘的で、声を掛けられずにいた。そうしているうちに音楽は止み、ドダイトスの上にいた鳥ポケモンたちは一匹、また一匹と飛び立ってゆく。マニューラは目を覚ましてシンジの姿を見とめると、どこか気まずげにその場を離れていった——別にシンジとて四六時中特訓をしていないからといって、怒るわけではないのだけども、一方でまあ、そう思われているのも致し方ないとは思う。

「ごめん、邪魔した?」
「……いや、帰る途中でたまたま聞こえただけだ。お前、草笛が吹けたんだな」
「旅の途中で教えてもらったんだ。『オラシオン』っていう名前なんだって」
「——『祈り』、か」
「さすがシンジ、博識」

 ニッコリと屈託なく笑うナマエを見ているとシンジはいつでも、自分の眉間の皺が解れて、口元が緩むのを感じてしまう。彼女にはそれをさせてしまうだけの魔法があったし、それにいつだって彼は惑わされてきたのだけれども、決してそれは悪い気分ではなかった。

「買い物帰り?」
「……ああ、兄貴に頼まれた」
「そっか、じゃあ一度帰る? わたし、今日はシンジに用事があって来たんだ」
「オレに、だと?」
「うん、まあ大した話じゃないんだけど……レイジさんに聞いたらこの辺りにシンジのポケモンたちがいるから会っていったらどうかって言われて、それでここで待ってたんだ」

 なるほど、と頷いたところでナマエは寄りかかっていた木から離れてシンジの方へと歩み寄った。一度後ろに振り返ってまたね、と手を振ると、シンジのポケモンたちはそれに頷いている。トレーナーとポケモンは似るものだと言うけれど、こうも穏やかにしている自分のポケモンをシンジは初めて見たので、それに何処か複雑な感情を抱きながら、けれど結局何か声をかけることはなく彼らに背中を向けた。
 草笛が聞こえるほどの距離なのだから家はそう離れているわけでもなく、程なくしてチャイムも鳴らさずに無言でドアを開けると、すぐにリビングにいたらしいレイジがドアの向こうから顔を覗かせた。

「シンジ……にナマエちゃん。帰って来たら伝えようと思っていたけど、先に会ってたんだな」
「先ほどはありがとうございました、レイジさん」
「いや、オレは何もしてないよ。シンジ、ありがとうな」
「……ああ」

 ナマエがレイジの方へ丁寧に頭を下げているのを尻目にシンジは手に持っていた袋をレイジへと差し出した。それを受け取ったレイジはちらりと中身を確認して、ナマエの方へと視線を移す。浮かべた笑顔はどこか愉しげで、嫌な予感が胸を過ぎる。

「それで、バトルするなら裏のコートが使えるよ。審判しようか?」
「は?」
「なんだシンジ、聞いてなかったのか」

 首を傾げるレイジの声は揶揄うような響きを伴っていた——それにナマエが気づいたかどうかはさておき、長年いっしょにいる弟は確かにそれを感じ取った。シンジは眉を顰めて、そしてレイジの発言の意味を理解してナマエの方へと視線を向ける。

「……お前の用事はそれか」
「あ……うん。突然ごめん。ずっとお願いしたかったんだけど、結局旅してる間はなかなか機会がなくて」

 なかなか機会がない、という言葉で曖昧にしたのは当然、シンオウリーグでぶつかった、おそらくシンジにとって一番のライバルであるだろうトレーナーの存在だろう。最近は落ち着いていたとはいえ、シンオウに訪れてすぐの頃には顔を合わせるたびにいがみ合っていたし、ナマエとバトルどころではなかった。けれど今ならば確かに、誰かに邪魔をされることもない。
 理由は理解したけれども、結局のところ目の前の女トレーナーは、わざわざシンジとバトルをするためだけに周囲の街からは少し離れてそう便利な場所とは言い難いこの街までわざわざ彼を訪ねてきたらしい。わざわざそんなことをする理由がさっぱり分からない——とは流石に言えなかった。兄貴がやけに楽しそうなのはそういうことか、と内心苦々しい気持ちで納得する。とはいえ、挑まれたバトルを断ろうとは思わなかった。彼女があのピカチュウのトレーナーに負けず劣らずの実力を持っていることは察していたし、シンオウでバッジを集めているわけではなかったらしくシンオウリーグには出場さえしていなかったが、トレーナーとして興味を持っていたことは確かだ。

「……審判は要らない」
「ハハッいいじゃないか、オレにも見せてくれよ」
「兄貴はいい、来るな。……行くぞ」
「えっ、あの……」
「ごめんごめん、ナマエちゃん行っておいで」

 レイジはやはり揶揄い半分だったようで、強引に着いてくることはなくナマエに向かって右手を振った。ナマエは状況を理解していないようで戸惑っていたが、レイジに見送られるままシンジの後ろに続く。後ろを歩く気配を感じながら、近所のバトルコートの方へとシンジは歩みを進めた。
 使い古されたバトルコートは、シンジが幼い頃、最初のポケモンであるナエトルを手に入れるよりもずっと前から親しんでいた場所だった。そこにいる彼女の存在だけが異質に感じられる。けれど彼女はそんなことにも構わずに、ルールはどうしようか、とシンジへと問いかけた。

「交代なしの3vs3でどうだ」
「あ、初めて会ったときにサトシとしてたバトルだね? いいよ、やろう」

 どうでもいいことはよく覚えているらしい。ナマエはいつものように笑って言葉を返したけれど、ボールを握った途端にその表情は大きく変わる。いつもよりもずっと真剣な表情でシンジの前に立つ彼女に、何か言い表せない感情が込み上げてきて拳を握った。トレーナーとして前に立つ彼女に、余計なものを持ち込むのは失礼だろう。視線を外して、彼もまた一匹目のポケモンが入ったボールを手に取った。

「いくよ、バルビート!」
「バトルスタンバイ、ブーバーン!」

 ——ナマエが虫タイプ使いであることはよく知っている。妥協も、手加減も、するつもりはない。ブーバーンを初めに出したのは、その意思表示のためでもあり、また、1戦目を確実に勝利してテンポを掴むためでもある。

「容赦ないね」

 ナマエが笑う。いつもの気の抜けたようなものとは違った、挑戦的な笑顔を浮かべていた。ブーバーンが威嚇するように大きく鳴いたが、バルビートはどこ吹く風というように辺りを不規則に飛び回っている。怖いもの知らずなところは「いたずらごころ」旺盛なバルビートらしい、といったところか。

「当たり前だ」

 どこか今までにない高揚感を覚えていた。旅の間何度もバトルをしたあのピカチュウのトレーナーとバトルする時とは違う——あの時ほどに激しい感情ではなくて、もっと穏やかだけれど、確かに心臓が熱くなる、不思議な感覚。

「『がんせきふうじ』!」
「バルビート『かげぶんしん』!」

 絶対先制の影分身にブーバーンが右手を伸ばして固まるのを見つめて、シンジは次の指示を考え始めた。