プロローグ——或る日の屯所

 今日の屯所はいつも以上に騒々しい。

 隊士たちはみなそわそわと落ち着きなく屯所の中を右へ左へと歩き回っているし、彼らのうちの一部は見慣れない新しい刀を腰に差している。彼らが通りがかる隊士へと自慢をしては興奮する隊士たちの声が屯所中に響き渡る。噂話をする隊士たちの小さな声がそこかしこから響いてきて、試し斬りだと新品の刀で藁を斬る音と混ざり合う。熱に浮かされたような光景だった。

「……下らねェ」

 その喧騒に似合わぬ冷めた声。幸いにも彼の——土方の近くには誰もおらず、その声を聞いたものもいない。彼は隊士らが騒ぐ様子を中庭の縁側から無感情な瞳で眺めていた。

 彼にとってはどうでもいいことだが、他の者たちにとってはそうではないらしい。彼らが持つ刀のこと、それらを送ってきた男のこと、それから——

「ベッドはその端に置いて! あ、向きは気をつけてね? 決して先生の奥さんを北向きに寝かせたりしないように!」

 土方はいつもと比べてもいっそう大きく声を張る己の局長の方へと視線を向けた。

(張り切ってんなァ、近藤さんも)

 その日の屯所は、伊東鴨太郎帰還の報、それに伴い事前に送られてきた戦利品の数々、そして彼の婚約者が一時的に屯所に滞在するという噂で持ちきりなのだった。




「随分とやる気だな」

 近藤に歩み寄りそう声をかけると、彼はすぐに振り返った。後ろからではよく見えなかったが彼は真っ白い鉢巻を巻いている。相当やる気だな、と内心で苦笑いを浮かべていれば、「お、トシか!」と彼を認識したらしい近藤が笑った。やる気だな、という言葉に当然だろうという顔をして大きくうなずく。

「先生がようやく戻られるんだからな。しかもあの芹沢家のお嬢さんを連れて」
「本当に大丈夫なのか? 要するに医者のボンボンの娘だろ? 屯所に例外的に滞在を認めるなんざ職権濫用じゃねーか」
「まあそうカッカするな。先生が江戸での真選組の便宜を図るための交換条件のようなものだと言うじゃないか。前にお通ちゃんにも1日局長をやってもらったし、真選組にとってプラスになるなら俺はよろこんで受け入れるぞ」

 土方はその言葉に何も言えずに「それは……そうだが……」と言い淀んだ。それはある意味では正論に違いなかった。だが一方で女性が、それもこうしてスキャンダルになるような立場の人間がこうして屯所に入ってくることが隊士にとってよいことにも思えない。上に関する事情がなければたとえ伊東と言えど許可などするつもりはなかったのだ。不満は小さな本音として旧友の前でさらけ出される。

「そもそも相手は女だろ? 医者なんざ務まるのかよ」
「こらトシ、それは差別だ。間違っても本人の前で言うんじゃないぞ」
「……チッ」
「何が不満なんだ? 奥様は先生のかかりつけ医で、その腕は先生も認めるものだというじゃないか。医者なんぞ多ければ多いに越したことがないウチには願ったり叶ったりだろう」
「そりゃあそうだが……」
「俺も会ったことはないが、先生が選んだお方だ。きっと素晴らしいお人に違いない」

 そもそもその先生の人格から疑わしいものだがな。言いかけた言葉は辛うじて飲み込んだ。ウチの大将はどうも人がよくていけない。伊東を呼び込むことへのリスクも何も理解しちゃいねェ。土方はそう思いながらもこの場でいっても仕方がないと、そうだなと返して黙り込んだ。

 芹沢家。その名を聞けば学のない隊士でさえ思い当たるだろう。将軍家に代々医者として仕える、名門中の名門、エリート中のエリート。本来ならば決して真選組のような粗暴な集団と関わり合いになることなどないはずの名家だ。その家のお嬢様がどういうわけか——どういうわけかもこういうわけかも、真選組の政治を担う伊東のすることなら少なくともその表向きの理由は明白だ、真選組の幕府における立ち位置を確立するためだろう——婚約者としてこの屯所へ一時的とはいえ滞在し、さらに緊急時も含め24時間対応できる医師として働くという。その知らせがもたらされたのはつい数週間前のことであり、そのときはその場にいた幹部も皆驚いたものだった。近藤は素直に喜びこうも気合を入れてもてなしの準備をしているけれども、それに従う隊士の顔にさえ未だ困惑が伺える。

 伊東が来る前でさえこの状態だ。彼はもう数日とすれば屯所へ到着するだろう。この喧騒がどこへ向かってゆくのか。真選組は本当に大丈夫なのか。土方はその部屋からそっと目を逸らし、中庭の適当な木の枝をぼんやりと見つめる。

 自らがその騒動のきっかけの一端を担うことになるとは予想もしていなかった彼は、伊東への苛烈な思いを抱えながらもそれらの光景をどこか他人事のように眺めていた。