或る夏の日


 夏の暑い日のことだった。外はまるでサウナのように蒸し暑く、つい先ほどまで空から注ぐ熱線を直接受けていた体はまだじっとりと湿っている。迎えにきた黒塗りのリムジンに乗り込んですぐ額の汗をハンカチで拭い、ペッドボトルの水を口に含んでようやく一息つくことができた。クーラーの効いた車内は外とは比べものにならないくらいに涼しく快適だった。走り出した車の窓からは賑やかな江戸の景色が伺える。

 幕府との折衝と高官の接待のために京へ滞在していた鴨太郎様が江戸へ戻るのに合わせて、わたしも数年ぶりにこの地の土を踏むこととなった。もう二度と戻らないのではないかと思っていたのに、いざ京を出てみれば江戸までの距離はそう遠いわけでもなく、また江戸で育ちながらも江戸に詳しくないわたしは未だに戻ってきた実感が持てずにどこか不思議な心地に包まれてしまう。京の街はもともと盆地で夏の暑さも寒さもとても厳しかったけれど、生まれ育ったこの江戸の街はそうではなかったはずだった。それだのにいつの間にか天人が好き勝手に湾岸地帯に高層ビルを建ててゆくものだから、それが山の役割を果たして擬似的な盆地が生み出されてしまったらしい。ここ数年の夏は特に厳しく、そこから逃れるために使われる大量のエネルギーによってまた江戸の熱は増す。そんな悪循環が毎日のように繰り返されているのだと昔知り合いの学者が嘆いていたのを思い出した。

「久しぶりの江戸はどうかな」

 ふと、隣にいた鴨太郎様がわたしに問いかけた。

「とても、暑うございますね」
「ああ、そうだな。京の街よりは幾分かマシになることを期待していたが……江戸もさして変わらないようだ」
「お迎えをいただいて大変助かりました」
「ああ。それでなくともお前をそう長い間歩かせるわけにはいかないからね。それとも久々に故郷を自らの足で歩きたかったかい?」
「いえ……わたくしは実家より外に出た経験はほとんどございませんから……」
「そうだったね。だがこれからはそうはいかない。ゆっくりこの街のことも覚えなさい」
「はい、承知いたしております」

 鴨太郎様はそれきり黙り込んで、再び無言で窓の外の景色を眺めている。それに倣ってわたしも反対側の窓を覗き込んだ。賑やかな街並み。木造の長屋が立ち並び、老人、若者、地球人から異性人まで様々な人が行き交い、すれ違う。生まれた頃からずっと育ってきた場所だというのに、外の世界をほとんど知らないわたしにはそれがまるで見知らぬ土地のように感じられた。遠くに見える江戸城の方角と太陽との位置関係を見るに、わたしの生家からは随分と離れた場所にいるらしい。実家へ帰るわけではないのだから当然といえば当然のことだったし、それは不安や違和感よりもむしろ安心をもたらす類の情報だった。嫌だというほどの強い感情はないけれど、積極的に帰りたいと思える場所かと言われれば、むしろ離れている方が望ましいことには間違いはない。

 車は見知らぬ街を抜け、見知らぬ大通りを走って江戸城からは——そして実家からは——どんどんと遠ざかってゆき、やがて大きな屋敷の前で静かに停まった。ここがどこであるかはわからない。けれどどういう場所かは知っている。

「梅、降りなさい」
「ありがとうございます」

 一足先に降りた鴨太郎様が、わたしのそばのドアを開いた。外へと出れば再び痛いくらいに照りつける太陽と、暑く湿った空気とに包まれる。目の前には立派な門が聳え、その脇には大きな看板がかけられている。

「梅、今日から此処がお前の家だ」
「承知いたしております、鴨太郎様」

 武装警察真選組。わたしは今日から、此処で生きてゆくらしい。

 至極どうでもよいことだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 わたしの一歩前へと出た鴨太郎様が門を叩けば、程なくしてその扉は開かれた。その向こうには大柄の男が一人立っている。「先生!」と叫んで破顔した彼に、鴨太郎様は近藤さん、と声を掛けた。

「久しぶりだな、先生! 無事着いたようでなによりだ」
「ああ、こちらこそ局長自ら出迎えてもらえるなんてありがたい限りだよ」
「ハハ、実はねェ、俺ァ先生に久々に会えるのが楽しみで仕方がなくて、屯所中をそわそわ歩き回っていたら終いにゃあ隊士たちに『それじゃあ門の前で待っていればいいじゃないですか』なんて言われちまったんだ! だからそれからずっと此処にいたんだよ」

 ハハハ、と大きな声で笑う男、近藤様に鴨太郎様は相変わらずだねと苦笑いを浮かべている。少々変わったお方らしい。近藤様——真選組の、局長。

 ——屯所へ戻る。しばらくしたら家を買うから、それまでは梅にも屯所へ滞在してもらいたい。

 ふと、数ヶ月前の記憶が頭に蘇った。真剣な表情の鴨太郎様に、かしこまりましたと頭を下げた。鴨太郎様は満足げに笑って、それから未だ一人もお会いしたことのない彼の同僚について話し出した。あまり仕事の話をわたしへしたがらない鴨太郎様にしては珍しいことだった。

 ——粗暴な隊士が多いし怪我人も多く出るだろうが、君ならうまくやっていけるだろう。

 鴨太郎様は随分とわたしを信頼していらっしゃるのだなと思ったことを覚えている。実際のところ、わたしは従順なわけでも、適応力が高いわけでもない。

 どうでもいい。全てがただ、どうでもよかった。生きることも死ぬことも、誰と添い遂げるかにも興味がない。人生の全てにほんの少しも、関心を持つことができないだけだった。

「そう、彼女が前に話していた僕の婚約者だ」

 その言葉には、と意識を取り戻す。「おお、君がか!」と笑う近藤様の視線がわたしに向けられていた。慌てて「芹沢梅と申します」と頭を下げれば、「梅ちゃんね、随分と可愛らしい嫁さんじゃないか!」と近藤様が鴨太郎様の肩を叩いた。

「婚約者だ、まだ正式な結納は交わしていない」
「おおそうだったそうだった、とにかくこんな可愛い嫁さんを貰うなんて先生も幸せものだなあ!」
「だから婚約者だと……」

 とても楽しそうな人だな、と思った。何度も何度も肩を叩いて笑う近藤様を、どこか迷惑げな表情で見つめる鴨太郎様。じりじりと暑い夏にこうも暑苦しい光景が繰り広げられると感じる暑さもひとしおだ。額から一筋の汗が頬を伝って落ちていった。ハンカチでそれを拭うと、それを見とめた鴨太郎さまがもういいだろう、と隣の男へ口を挟む。

「外は暑い。話なら中でゆっくり聞こう」
「おお、そうだな! 梅ちゃんも暑い中すまないね。さ、入ってくれ!」

 ようやく門の中へ入ることが許され、近藤様と並んで歩き出す鴨太郎様の一歩後ろを着いてゆく。大きな音を建てて門の扉は閉ざされた。

 玄関まで続く石畳。両脇にはたくさんの隊士たちが稽古に励む様子が伺えた。といってもわたし達の——正確には鴨太郎様の通りがかるのを見ると皆竹刀を下ろし、頭を下げている。前を歩く鴨太郎様はそれには構わず、近藤様に話しかけていた。

「梅は慣れない長旅で疲れているんだ。部屋に案内してやってくれないか」
「おお、そうだな。……トシ、トシ!」

 どうやらわたしへの気遣いをいただいているらしい。頷いた近藤様が呼んだのは別の男の名だった。程なくして奥に見える武家屋敷の玄関が開く。その向こうには近藤様や周囲の隊士たちと同じ黒い服を身に纏った黒髪の男が立っていた。

「アァ?何か用か、近藤さん……って、」
「土方くんか。久しぶりだね」
「……ああ、そうだな」

 土方様というらしい。その名前には聞き覚えがあった。真選組鬼の副長、土方十四郎。近藤様に次ぐ真選組のNo.2であるはずのその男に、鴨太郎様はいつもよりも幾分か低い声で話しかけ、男もまた近藤様に話しかけた時と比べて随分低い声でそれに答える。なるほど鴨太郎様との仲はあまりよろしくないらしい。ピリピリとした空気の中、まるでそんなことには微塵も気づいていないように、近藤様だけが楽しそうな笑顔を浮かべていた。

「トシには梅ちゃんの案内役を頼みたいんだが……」
「梅ちゃん?」
「……芹沢梅と申します」

 どうぞよろしくお願いいたします、と頭を下げるが、土方様は何も答えない。代わりに「世話係なら他の隊士にでもやらせりゃいいだろ」と不満を述べる声。尤もなことだ。彼らは江戸の治安を守るために此処にいるのであって、女の接待をするためにいるわけではない。しかし近藤様はまあいいじゃないかと土方様を宥めている。

「世話といっても屯所を案内するだけだし、他のヤツらに任せて梅ちゃんに粗相があってもいけないからな。トシが一番適任だと思うんだが……」

 近藤様がもう一度頼む、と言葉を重ねると、土方様がため息をつく音が聞こえた。

「芹沢っつったか。……顔を上げろ」
「……はい」

 顔を上げると、土方様は幾分かその表情を緩めている。緩めたとはいっても瞳の向こうには警戒心が宿っていて、決してわたしを認めたわけではないようだ。鴨太郎様は黙ってわたし達の様子を伺っている。

「……部屋は伊東の隣だ。幹部用の部屋を一室改装した。屋敷は広い。案内するからなるべく早く慣れてくれ」
「……お気遣い感謝いたします」

 もう一度頭を下げると、鴨太郎様の「土方君、すまないね」という声が聞こえる。どこか形式的なそれに土方様も「ああ」と短く答えた。それを聞いて頭を上げると、鴨太郎様は土方様からわたしへと視線を移していた。

「京から江戸まで慣れない旅路で疲れただろう。一通り屯所のことを教わったら部屋で少し休みなさい。夕餉の時に迎えにゆこう」
「かしこまりました。ありがとうございます」
「梅ちゃん長々とごめんねェ。ここいい女中さんが揃っててご飯はおいしいから楽しみにしてて」
「……ありがとう、ございます……」

 決してわたしや鴨太郎様への警戒を怠らない土方様とは対象的に、近藤様はまるで古くからの友人に向けるような笑みを浮かべていた。土方様に向けるものと、全く同じ笑顔だった。

 ではまた夕餉のときに、と片手を上げる鴨太郎様にもう一度頭を下げると、土方様が「行くぞ」と声をかけるのに頷いた。後ろからは「またねー!」と叫ぶ近藤様の声が聞こえ、上半身だけ振り返ってもう一度頭を下げる。

「ったく近藤さんはどこまでお人好しなんだか……」

 愚痴っぽく吐き出されたそれに何か言葉を返すべきだろうか。悩みつつ何も言えないまま土方様に着いてゆくと、あっという間に玄関までたどり着いて結局何も言わぬまま「靴はその箱に入れればいい」という土方様の言葉に頷いた。一般的な武家屋敷——ふつうよりは広いかもしれない。隊士の数を考えればそれも当然のことだ。玄関を上がって土方様の方を見れば、あちこちへ視線を彷徨わせながら土方様が口を開く。

「あー……とりあえず部屋に行くか。荷物を置いてからがいいだろ」
「ありがとうございます。お願いいたします」

 戸惑いが伝わった。女性に慣れていないとか、そういうことではなくて、おそらく、決してお世辞にも仲がいいとは言えない男と懇意にしているわたしを前に、どのように接すればいいのか測りかねているのだろう。気にしなくていいのに、とも思うけれど、口にはだせない。

 屯所には女中以外の女性は滞在していないという。女中でさえ泊まり込みではなく、朝食から夕食までのシフト制で、短期間とはいえ女性がこの屋敷に滞在するのは異例のことであるらしい。実際鴨太郎様に頭を下げていた庭の隊士たちも、わたしに対しては明らかに戸惑うような視線を向けていた。ちょうど今の土方様と同じように。

 「……行くか」と背中を向けて呟いた土方様に「はい」と返事をすれば、土方さまは無言で廊下の方へと歩き出す。追いかけるようにその二歩後ろを着いて屋敷の奥へと入っていった。