最終話
また、夢を見た。
少し前に見たあの灰色の世界の中に、私は再び立っている。
一度大きく瞬きをすると、そこに聖護さんが立っていた。いつものように口元に微笑みを浮かべている。
その姿にひどく安心を覚えた私は、救いを求めるため彼に向かって手を伸ばす。
あと少しでその腕に触れそうになった瞬間、彼の背後から黒い闇が生き物のように吹き出した。それはあっという間に大きく手を広げ、容赦なく私を捕らえようとしたー。
「…ッ!!」
ひどい目覚めだ。
今見た夢の恐怖が、鮮明に私の胸で疼いている。横になったまま胸を片手で抑え、大きく深呼吸を一つ。
こういう時、微睡みはもう訪れないと知っている。 ベッドサイドに置かれている時計を見ると、朝の5時を回ったところだった。
水でも飲もうかと身体を起こそうとすると、お腹のあたりに聖護さんの腕が回されている事に気がつく。
うなじをくすぐる規則正しい吐息で、彼はまだ眠っているのだと分かった。
起こさないように細心の注意を払い、そっとその腕の中から抜け出してベッドから床に足を下ろす。
昨日の情事の際に放られたバスローブを手に取ってそれを軽く羽織った。ふと床に視線をやると、真っ黒な灰で満たされたゴミ箱が目に入る。
「…」
おびただしい鮮血にまみれたあのパーカーの燃えかすだ。
別に感傷に浸っているわけでもない。喪失を漂っているわけでもない。私はただそれを無感情に見つめていた。
テーブルに置かれていた水差しを傾けて、グラスに注いで喉に流し込む。
「今日ここを発つ」と聖護さんは言っていた。準備も何もないけれど、私はここに来たときに着ていた服を身に纏おうと、服が置いてある浴室へ向かった。
居間へ戻ると、聖護さんがベッドの上で半身を起こして窓の外を眺めているところだった。
その横顔からは何も読み取れないけれど、完璧な造形と掴みどころのない雰囲気を纏う彼は美しい、と改めて思い知らされる。
「…ユリ、おはよう」
「おはようございます」
「目が覚めたら隣にいなかったから、姿を消したのかと思ったよ」
そう言いながらベッドから降りて私に歩みを寄せる。彼は立ち止まって私の頬を軽く撫でると目を細めた。
「あまり顔色が良くないね」
「…とても怖い夢を見たんです」
「へえ。それはどんな夢かな」
彼の指先が私の顔のラインをねっとりとした動きで撫でる。思わずその感覚に肩がすくんでしまった。
「話したくなければいいよ」
聖護さんはそんな私の様子を見て指先を離すと、「顔を洗ってくる」と言い残して洗面所に向かって行った。
朝食はろくに喉を通らなかった。
せめて果物でも、聖護さんが勧めてくれたのでほんの少し口にした程度。
食後の紅茶を飲みながら、彼はスマホを耳に当てて「チェ・グソン」と口にした。親しい真柄なのだろうか、口調に慣れた雰囲気を感じる。
「ああ、準備はできた。車を手配してくれ。…そう、昨日話した女性も一緒だ。…では後ほどまた」
「…お知り合いですか」
「そうだな。僕の悪巧み仲間、とでも言っておこうか」
そして紅茶を一口含む。
その姿を視界の端で捉えながら思う。
私は聖護さんの素性を何も知らない。思えばその名前だって本物なのかも分からない。そんな人間に、私の心は掌握されてしまったんだ。
「…怖いかい」
隣に移動してきた聖護さんに、真っ直ぐ見下ろされる。私の瞳に不安と希望が織り混ざっている事くらい、お見通しのようだった。
「ユリ。目を閉じて」
「…っ、ん」
言われた通り目を閉じると、すぐに唇を塞がれた。角度を変えて何度も触れ合う熱に、息が上がっていく。
差し込まれた舌は「逃がさない」とでもいうように私の舌を絡めとる。頭の中で鳴り響く湿った水音にクラクラしそうだった。
ちゅ、と音を立てて離れていった唇をぼんやりと眺める。聖護さんは濡れた唇を舌先で舐めると、私の身体を抱き寄せた。
「ここを出たらもう引き返すことは出来ない」
「……はい」
「今すぐ殺して欲しいかもしれないけど、それは出来ない。僕は君という存在を、まだ側に置いておきたいんだ」
「ぁ…っ」
かぷ、と耳を甘噛みされる。
緩急をつけてやわやわと唇で挟まれて、ぴくりと身体が反応してしまった。そのまま耳元で低く囁かれる。
「ー君は僕のものだ」
「…っ」
「そろそろ行こうか。グソンが来る頃合いだ」
私の身体を解放すると、聖護さんはソファから立ち上がった。そして部屋の出口に向かい、ドアの前でくるりと私を振り返り嗤ってみせた。
「さあ、行こう。…僕と共に」
ああ、と思う。
この人は天使じゃない。けれど悪魔でもない。
「はい。…聖護さん」
選択肢は一つしかない。
その手に向かって私も手を伸ばす。
繋がった手はどこか、監獄へと繋がる鎖のようだと思った。
Fin.
2020.6.2〜2020.7.1
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