最終話 彩雲の彼方へ
それから他愛のない話をして、時々手に触れ合ったり、抱き締めあったりして。
ただそうしていただけのはずなのに時間が過ぎるのは本当にあっという間だった。
時計の針が長針も短針も12という数字を指してしばらく経った頃、「さて、そろそろ行くか」とヨハン君が立ち上がった。
私は少しためらったあと立ち上がり、彼がここへ訪れる時に入ってきた窓へ歩いて行くのに続いた。
「寂しい」と言ってしまうのは簡単だった。そしてヨハン君ならきっとその優しさで、私の思いを受け止めてくれるであろう事も分かっていた。
喉まで出かかったその言葉を飲み込んで、私はヨハン君の後ろに立ってその服の裾を弱い力で引いた。
「ん?どうした?」
口元に微笑みを浮かべてこちらに身体を向ける前に、私は後ろからヨハン君の身体をぎゅっと抱き締めた。
見た目は細いのにその身体はしっかりと引き締まっていて女性である私よりもやっぱり筋肉がしっかりついていて、男性であることを改めて実感する。
「…あの、ね」
「うん」
「…待ってる。私、待ってるから」
決めたんだ。「寂しい」という言葉は伝ずに、ヨハン君をちゃんと笑顔で送り出す事。迎えに来ると言ってくれたその言葉を信じて待つこと。
ヨハン君は黙っていたけど、私の手にその手を重ねて「ああ」と静かに頷いた。
そして私が腕を解くとこちらをゆっくりと振り返る。とても優しい笑顔だった。
「ユリが呼んでくれたらいつでも行くかさ。オレの知らないところで泣かないでくれよ?」
「…、うん…!」
そしてそのままぎゅっと強く抱き締められて、「好きだよ、ユリ」と耳元で囁いてくれる。
応えるように頷くと、目と目があったあと唇が重なり、それは小さく音を立てたあとにゆっくりと離れていった。
「じゃあ、もう行くな」
窓をカラリと開けると、ヨハン君はベランダの柵に手をかけた。
本当はもっと一緒にいたいしあと五分だけでもいいからここにいてほしい。そんな気持ちでいっぱいだったけど、私は頷いて「またね、ヨハン君」と笑顔で手を振った。
ヨハン君はそれを見て少しだけ安心したように笑うと、「おやすみ、ユリ」と言ってそのまま柵に足をかけて木に飛び移っていった。
ガサ、と木が擦れる音が何度かして、そのあと草が揺れる音がしたので地面に着地できたんだろうと思った。
窓から顔を出して下を見下ろすと、ヨハン君はこちらに向かって手を振ったあと、そのまま男子寮に向かって走っていった。
「…おやすみ、ヨハン君」
ついさっきまで触れていたはずなのに、もっともっと、と求めてしまう私はただの欲張りなのかもしれない。
けどヨハン君も私と同じ気持ちだったらいいなと思った。
まだ残っているヨハン君の体温を抱き締めながら眠ろうと思い、私はベッドへ向かった。
翌日、波止場には3年生の全生徒と校長、それに教頭先生が留学生たちの見送りに来ていた。
迎えの船はもう着いていて、あとは出発するのみ。鮫島先生がみんなの前に一歩進み出て、留学生の生徒たちに別れの挨拶を述べる。
「みんな、この度は我が校に来てくれたことに本当に感謝する。お陰で生徒たちのいい刺激になった。そして君達にとってもいい刺激になったことを願っている。各々の学校に戻っても、それを生かしていってくれることを期待しているぞ」
そして一人一人と握手をして、アカデミアの生徒たち全員が拍手を送った。
それが終わると、留学生たちは生徒たちに向かって手を振った。
ヨハン君の視線が何かを探すようにして生徒たちの合間を縫い、そして私と目があったところで止まる。私を探してくれたのだと分かった。
少しの間視線が交わう。やがてヨハン君は微笑みを残してこちらに背を向け、そして船に向かって歩き出した。
ー大丈夫、またすぐに会える。彼の視線はそう言ってくれているような気がした。
「元気でな!ヨハン!」
見送りの声の中に、十代の声が混ざって溶けていく。
波止場から遠ざかっていってどんどん小さくなっていく船を、私達は見えなくなるまで見送っていた。
やがて生徒たちは散り散りになっていき、波止場には私だけが立っていた。
そこにあるのは頭上に広がる青空と、静かな波の音と、頬を撫でる風だけだった。
「…またね、ヨハン君」
この学園で貴方と出会って生まれた恋はー、いつかここを離れたあとも、私の心の中で鮮やかに輝き続けるんだろう。
船が去った方向をしばらく見つめた後、私は微かに笑顔を浮かべてその場をあとにした。
Fin.
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